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世界と自分を繫ぐもの


なんだか仰々しいタイトルになってしまったが、中身はなんのことはない、ただの自分語りである。
文字におこしたいという欲に素直に白旗をあげて、つらつらと書き連ねていきたい。

イヤホンをそっと耳から外して、ほぅ、と溜息をひとつ。
手元のベージュの冊子を閉じて、表紙を撫でた。
掌に少しざらりとした感触が伝わってくる。
夢から醒めたような心地で周囲を見渡す。
普段と変わらぬ自分の部屋である。

今の今まで楽しんでいたのは、6月某日に東京で開催された朗読劇を収録したものだ。
仕事の都合で参加できなかったが、幸いにもCD化され、台本と合わせて購入した。

1970年代、各地で起こっている心中事件が世間を騒がせていた。
小説家の青年とその友人が、心中事件を追うフリーの記者と出逢い、それぞれが抱える罪に対峙する。

大変大雑把だが、上記が大まかなあらすじだ。

2年ほど前から、私はある声優さんのファンになり、出来うるかぎり作品を追っている。
そうした活動をしていると、自分が世界と繋がっていると、実感できるのだ。
日々の生活に追われる中で、ふとした瞬間、自分が世界から切り放されているような感覚に陥ることがある。
限られた広さの中で、限られた数のひとと接するうち、果たして自分は今どこにいるのか、分からなくなる。
言いようのない寂しさに押しつぶされそうになる。
そんな状況で、応援しているかたの作品に触れると、自分はこのひとと同じ大地に立って、生きているのだと、実感できる。

縁あってこれを読んでいる貴方からすれば、違和感を覚える考え方だろう。
何を言っているのかと、溜息まじりの呟きをこぼすかもしれない。
けれども、眉を顰められてもいい、これが私のやり方だと、胸を張ることはできないまでも、多少周囲へ公言できるようになった。
中学時代、休み時間に本を開いていることが多かった私は、クラスメイトから度々からかわれていた。
お昼休みに文庫本を手にしていれば、「お前も昼の読書見習ったら?」などと、ふたりの男子の会話が耳に入ってきたこともある。
彼らからすれば、ごく軽い気持ちであったろう。
でもそれは、当時の私の心を傷つけるには十分すぎるほどの大きさの棘であったし、それを受けて、さらに内に篭もるという悪循環であった。
以来、もうこんな思いはしたくない、という恐怖が長く、重く心に居座り続けた。

大学を経て、社会へ身を置き、世界にあふれる多様な価値観に触れて、心境の変化があらわれた。

私は私でいいんだ、自分だけは、“私”の好きなものを否定せずにいようと。

今の私を支えている言葉である。

本を含めて、時間と資金が許す限り、好きなものを後悔のないよう、精一杯楽しもうと。

身体に纏わりつく重いものを脱ぎ捨て、水面から顔を出すように、呼吸の仕方を思い出させてくれる、代わるもののないツールであり、宝物である。

そうした唯一無二のものに出逢えた世界は、思ったほど悪いものではないよ、と当時の自分に伝えたところで、素直に呑み込むことは、おそらくできないだろうけど。

それでも、今の私の居る場合は、そこそこ居心地が良いと思う。

縁あって邂逅できたことに、心からの謝意を。

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