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ちょっとした言い回しについて考える

この間書いたnoteに「子どもを持ったときに芽生える気持ち」と書いた。でも、ふと思うと「子どもを生んだときに芽生える気持ち」にしなかったのだろうか。

今日、女性をパートナーに持つ女性の方のnoteを読んでいたときに「この間書いたnote、子どもを生んだときって書いたような気がする。女性同士、男性同士だって子どもを持つことがあるのだから「生む」ということだけじゃないよな」とふと思い書き直そうとnoteを開いたら、生むとは書かずに「持つ」としていた。そう書いていて少しほっとした。

「子どもを生む」ということはとてもセンシティブなことで、そう望んでいてもすべての人が叶うわけではなく、その気持ちはおそらく辛い痛み伴う。だからできる限りちょっとした言葉の端々でそういった気持ちを想起しないような言葉を使いたいと思っている。

私は女性で、いままで異性愛者で、妊娠可能ギリギリの年齢であるため、「産める体」を持っているため、(厳密に調べたら無理かもしれないが)「生んだとき」と書いてもおかしくないはずなのに、何故「生む」ではなく「持った」としたのだろうかと考えている。数日前なのにもう思い出せない。

実際にどちらが良い言い回しなのか正解はわからない。けれど日々の暮らしの中で不用意なことや差別的発言ということに注意していても、知識・経験の不足によっていつでも起こり得る。だからこそ、日々のちょっとしたことに目を向けられる余裕を持っていたいなという気づきだった。

最後まで読んでいただきありがとうございます。頂いたサポートをどのように活用できるかまだわからないです・・・。決まるまで置いておこうと思います。