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シーラカンスと僕と創世記

デザイナーのKOJIROです。11/10の日記。



ぼくは「夜型人間」だとおもう。

幼い頃から夜の散歩がだいすきで、大学生の時もスマートフォンで「夜用のプレイリスト」を作っては一人でドライブする自分に酔っていた痛い学生だった。

大人になった今も、コロナで自宅勤務になってからは精神衛生があまりよくなくなってしまった時期もあり、なかなか夜に寝付けず
「今日は26時には寝る」というハードルの低い目標すら守れず自己嫌悪に陥ることもあった。

そんなとき、サカナクションの「シーラカンスと僕」とかが入っている夜用プレイリストをつけると、いつでも学生のころの車の中に戻れて安心できた。

青い目とウロコで うろうろする僕はシーラカンス
どこかへ走り出しそう さよならする深い夜から 
山口一郎 - シーラカンスと僕

夜の街を深海にたとえて、あてもなく彷徨う自分をシーラカンスに置き換えた叙情的で美しい詩が大好きで、なんだか世界に自分がひとりだけになって、なんでも思い通りにできる気持ちになる。

でも朝起きると、また1日が始まる。基本的に楽観主義だけど、そんな現実逃避癖のある自分が情けなくなる時がある。


ここで唐突だけど聖書の話をする。

初めに、神は天地を創造された。
(中略)
神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、
光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。
夕べがあり、朝があった。第一の日である。

上は旧約聖書・創世記の有名な冒頭部分。

気になったのは「夕べがあり、朝があった。」というところ。
普通、1日の始まりは朝である。なんで「朝があり、夕べがあった」じゃないんだろう、と思った。

調べたら結構面白かった。

古代イスラムでは日の沈む夕方を1日の始まりと捉えていたらしい。
砂漠地帯では、太陽の熱気が漂う日中を「死の世界」で、太陽の去る夕べこそ「生命の目覚めの時間」とされている。

なんか常識的に、朝が1日の始まりだと思っていて、朝を元気よく迎えることができない人はダメ人間なんだと思っていた。でも、一部の地域では太陽が出ている時間は「死の世界」らしい。
サークルのノリについていけなかったり、コミュニティの人間関係に悩んでいた時間は「死の世界」と頭のどこかで捉えてしまおう。

ネガティブポエミック人間かもしれない。でも自己肯定感下げる方がよくない。「シーラカンス」になって、一人の夜を漠然と過ごす自分を、必要以上に否定しないようにしたい。

今後また寝付けない時もあると思うけど
だれからも干渉されないぼく一人の夜の時間を 生命の目覚めの瞬間として大事にしたい。

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