思春期の悩み

吾輩はゲイである。
吾輩がゲイであることを語るのであれば、やはり悩める少年らの参考に少しでもなればいいと思ってこの記事を書こうと思いついた。

-思春期の吾輩の様子-

中学時代、高校時代の吾輩は社交的な方ではなく、同級生との交流を面倒に思い、小説を好み、海外の映画を好み、哲学や心理学に興味を持つ、内に内にと潜るような性質の子供だった。
運動も得意ではない、勉強が絵が上手な男らしさは少ない大人しい男の子、というのが当時のクラスメイトからの吾輩への評価だろう。
(卒業時の寄せ書きの9割は「絵が上手だね」で埋まってた)
お世辞にも今で言うスクールカーストの上層にはいないタイプだし、かと言って徒党を組むほどの社交性も無かった。
そんなわけで同級生、友達の存在が大きい子供時分に特別親しい友人関係を作ることも無く、居心地の悪い思いをすることも多々あり、孤高ではない一匹狼的な性質と割と大人からは評価が高かったことも相まって悪目立ちしていたのだろうな、と吾輩は自己分析をしている。
そうなればやはり、害意を向ける輩も少なからずいると言うものだ。
金銭的な被害は無いが、暴力を振るわれたり、聞こえるように悪態をつかれることもあり、それなりに嫌な思いをしたし、相手に殺意や憎悪を抱くこともあった。
しかし、当時も今思い返してみても吾輩はそれらの嫌な思いがゲイであることが十全に起因しているとは考えていなかった。

-いじめの本質-

いじめは自己と他者の未分化なことに起因すると吾輩は思っている。
未成熟な時分は自己と他者の共通部分とそうでない部分が分からない。
思春期は自分という存在に悩み、多数派に所属することで自分の存在に正当性を見出そうとする時期だ。
だから自分と違う、自分たちと違うという点のみで優位性を見出して攻撃行動をとることが起こる。
確かに同性愛者であるということは圧倒的に少数派であり、いじめっ子が優位性を見出す要素にはなりえるだろう。
しかし、いじめは同性愛者を対象に起こる限定的事象ではない。
異性愛者であっても同様に起こるのだ。
同性愛を理由にいじめる人物は、同性愛を理由にしなくてもいじめを行うのだ。
他人から嫌悪、忌避される要素が当人にある場合もあるだろうが、他人をいじめるという行為はいじめる側のあり方の問題でしかないと吾輩は思う。
攻撃のスキがあるからと言って本当に攻撃するかは攻撃側次第だ。

-思春期の君へ-

悩むことはいいことだ。
「自分らしく」と個性を求めるのも良いことだ。
しかし、勘違いしてはいけない。
どんなに同じ服を着ても、どんなに同じ動きをしても、どんなに同じものを作っても生まれる誤差が個性というものだ。
LGBT問題を語る際の曖昧な「自分らしく」に騙されてはいけない。
今の日本社会は同性愛者が自分らしく生きられないような社会ではない。
同性愛者であることなんて自分を形成する一要素に過ぎないのだ。
同性愛者であることをカミングアウトしないことで自分らしく生きられないなんてことはない。
同性愛者でなくても本当の自分を表現できていないと悩む人は多い。
同性愛者であることを自身の不都合のゴミ箱にしないで欲しい。

結論:

吾輩は今の日本でカミングアウトせずに自分らしく生きている。
同性愛なんて些細なことだ。
そう思って30数年間、カミングアウトせずに自分らしく
生きていると断言する男だっているのだ。

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