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何も奪われていない 私たちは全体そのものだから

最近 起きた 大きな変化。
それは、イライラや急激な怒りに翻弄されることが激減したこと。
夫は、ちょっと前 なにかとイライラしてた私に「ああ、更年期やなあ」と思ってたらしい。勝手に決めちゃ困るわよ。確かに更年期、でもあるけれどさ。

さて、私たちは、世界の一部で、他と繋がっているという考え方を時々目にするんだけど、一部という言い方も少し違ってて。私は、全体そのものなのだ。

だから、たとえば、西洋医学のみを信じてる人たちと、そうじゃない人たちが全く別の存在かというとそうじゃなくて、どっちも自分なのだ。とはいっても、最終的には、それぞれがそれぞれの世界を生きてるんだけどね。
でも、そのそれぞれの世界というのは、他者の世界を排除した結果、ではなく、他者の世界も含み込んだ世界。だから、私たちは「全体」を生きているのだ。そして、それぞれの世界を生きているのだ。

このとき、奪う奪われるは成立しない。他者から何かを奪った気になっていても、他者と私はともに全体そのものだから、奪ったと思っていたものも、それは元々「私のもの」「私である全体の有するもの」だったのだ。
そう、私たちは、誰かから奪うことなんてできないのだ。

以前の私は、奪う、奪われるということを気にしていたために、
自分の時間を奪われた、期待していたほど得るものがなかった、してくれてると思ってたことをやらされている、とイライラが起きていたのかもしれない。
せっかく、あの人のために○○してあげたのに、あの人ったら、してもらって当然って顔してさ、とかね。

でも、自分が他者にできることは、実は 自分が自分に対してもしてあげられること、あるいは、実は相手ではなく、自分に対して、してあげたことだ。
このことを思い出したとき、自分の行為は、「奪われた」という喪失ではなく、豊かさとして結実するのだった。
そんなことを思い出した頃に、「あれ、私、最近イライラすることが減った」「こういうとき、以前の私ならイライラを爆発させていたのに、今は、反応していないな」って気づいたのだった。


私は、最近まで 上に書いたようなことは全然思ってなくて、むしろ ある人や、あるいは別の人たちに これまでの人生の中で 散々利用されて、エネルギーを奪われたと思って、とても悲しい思いや憤りに、苦しいって思ってて、時には 本当に文字通り のたうち回って苦しむようなこともあったのだ。
でも、怒りでもなく、憎しみでもない言葉を その人たちに送るに至ったとき、その人が私から奪うことができたものは何もなかったのだと気づくことができた。相手は、私からいろいろもらうことができた、と思っているようだった。でも、実は、相手は大切なものを失ってしまったのだ。あるいは、失っていることに気づけないままなのだ。相手が私からもらったと思っているものは、実は、自分が手に入れようのないもので、そして、やはり、今でもその人たちは、それを本当の意味では手にしていないからだ。


今日のこのnoteは、完全に自分だけのためのものになってしまっているなあ、とここまで書いてきたものを改めて読んで思う。
それでもこのまま公開設定をしようと思う。

私たちは、誰かから奪うことなんてできないのだ。
相手の大切なエネルギーを、自分が奪ったと思ったとしても、実際は、自分が自分の大切なエネルギーを奪ってしまっているのだから。

奪おうとしている限りは、
あるいは、奪われる恐れにとらわれている限りは、
苛立ちから免れることはできないだろう。


ねえ 損得を考えるよりも、誰かに捧げることで、豊かさを知る生き方をしていたいって言っていた あなたは 今 どこにいるんだろう。

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