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【自分を癒すということ】⑤憎しみが「書く」原動力だったかもしれないと思い始めた

いろいろなツールを使って、自分の感情や考え、そして日々の動きを可視化してみたら、最近の自分が案外穏やかな日常を送っていることに気づきました。(いくつかのアプリで自分のことを記録しているのがおもしろい。習慣のテーマで文章を書くときに整理したいと思っている)

仕事で案件が立て込むと、とたんに交感神経がババー----ッと活動しますが、それも案外いつの間にか副交感神経が「まあまあ、落ち着いて」ってなだめてくれたりして。

以前も書きましたが、最近までの数十年間の私は、基本的に戦闘態勢だったようです。

穏やかでありたいと思い、そして、自分では意外ですが、他人からは「穏やかな人」だと思われることも多くなってきましたが、心の中は、常に嵐が吹き荒れていました。
他者の言動にかちんときたり、あるいは、ネガティブな気持ちの人が周りにいたり、時には理由もなく意地悪なことをされたり、そういうことが多かったのです。自分の心の中の嵐が、ネガティブな出来事を引き寄せていたのでしょうが、なんせ、心の中は荒れていました。

それが最近、上にも書いたように、本当に穏やかなのです。「こんなんでいいの?」と何日かは思いました。日常とは、もっと激しくて、乗り越えるべき荒波が次々と押し寄せてくるものだといつの間にか思い込んでいたようです。

そうすると、嵐にエネルギーを使わなくてよくなったので、家事や仕事のスピードや質が笑ってしまうくらいよくなってきました。仕事のために必要な読書や勉強も、これまた笑ってしまうくらいはかどるのです。

同時に、「書く」ことに関する思いの強さも、落ち着いてきました。
つまり、「戦闘態勢」「かつて私にネガティブな生き方を見せてくれた存在への憎しみのようなもの」が私に文章を書かせていたのかもしれない。
憎しみが原動力だとは、ちょっと悲しいことだな、と思うけど、たぶん否定しようのないことだと思っています。

憎しみを手放した日々は、優しい空気が流れています。日々、辛いことや、忙しさによる、ちょっとした苛立ちはもちろんあります。が、なんだか基本的に優しいです。これまで、私はなんでこんなにいろいろ怒っていたんだろうなあ、と思いながら、仕事や家事をしています。狐につままれたような気持ち。なんか、今までだまされていたのかな、みたいな。

憎しみの化身みたいになってしまわなくて、ほんとうによかったなあ、と 今 つくづく思っています。生まれて初めて「憎いなあ」と強く思うきっかけを作ってくれた人を見ても、最近は、「うーん、思っていた人とは違うんだなあ。私が期待しすぎてしまったんだなあ」と思ったり。

憎しみは、人を人じゃなくしてしまうのです。
なぜ、それを手放すことができたか。これまで書いたことがあるように、私を無邪気に慕ってくれる存在、頼ってくれる存在、そういう人たちが私をひきとめてくれたのだろうと思います。

それ以外にも、日々の過ごし方や、小さいころから続けていたことなど、考えてみると、私を形作るものが、朽ちてしまわずに残っていて、どうやら私はふみとどまることができたようです。

よくがんばったね、と思う。

今、憎しみの渦中にある人も、いずれ、それを手放して、ちょっと違う世界が見られる日がくるはず。ぜひ、ご一緒に、「あれ、この世界には、こんなところもあったんだね」って言い合いたいですね。

手放せないものがある人は、ぜひ たくさんたくさん「書いて」ください。言葉や、紙の手触り、noteの中の落ち着いた画面、そうしたものが、少しずつ 心をやわらかくしてくれると思います。


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