時間や心は、やはり個人のものではないな、と思う
ボランティアとか物々交換とか、そういうことはとりあえずのけておいて、「無料ってほんとめんどくさいな」と思った話。そして、「無料サービスを受けるって、自己責任」と思った話である。そして、お金を介することで生じる覚悟や信頼について改めて考え始めたということ。(親子関係も除いておこうか…)
時間も、心も、個人のものであるように感じている、現代社会だけれども。時代や地域、文化によってはそうではない。
さて、日本のある大学で、時間に関する実験をしたのだが、時間を誰かのために使うと、自分自身のことだけをしていたときより、時間が長く濃密なものに感じられるという結果が出たそうだというのを何かの本で読んだ。誰かと何かを分かち合ったことで、その場にいた人たちのエネルギーをみんなで感じ取ったから、個人のもつ量以上のものをみんなが感じ取ったのだろうと思う。だから、分かち合うことは減ることではないのだ。
だが、今の社会には、相手からもらうこと、あるいは、自分自身を大きく見せることに注力するようなムードがあるかもしれない。「個」を基盤として社会が作られてきた結果。個人が基本単位だと、自分の時間を誰かのために使うことは、誰かに渡す、すなわち自分は失うことになる。
こんな風に書いていると、現代の日本社会(個人を単位として、そして資本主義である)をただ否定したいような文章に思えてくるが、そう単純なことでもないよなとも思う。
お金のやりとりで関係がうまく回ることもたくさんある。
支払いをすることで、その範囲内で互いのやりとりが完結するというわかりやすさ。自分がすることについて、一定の金額を設定して支払いをしてもらうことは、複雑になった社会の中で時に有効。「このやりとりに関しては、この金額の範囲内くらいで収めておきましょう」っていうこと。同じ人間同士でも。別の状況では、またそれに応じた支払いをする。そうするとエネルギーのやりとり、というかバランスがとれる。私ばかりしんどい思いをしている、みたいなことを防げるということ。
話を最初に戻しつつ、もう少しこのことを補ってみたい。
時間をお互いが共有しているものだということを、両者が確認する意味で、支払い額を設定して、そして支払いをする。支払い額に見合うと思われるだけのものを提供する。そう考えると、資本主義社会なんだけど、単純な物とお金の交換というより、価値の交換を行っているんだなあとたぶん、とっくに当たり前の出来事であろうことを個人的には今初めて発見したことのように思ったりするのである。
改めてお金って便利なシステムだなと思う。これによって関係がスムーズに進んだり、補われたりしていることがあるんだよなとお金に関する仕組みをありがたく思う。
「どこそこのお店に行けば、〇〇円の支払いで、△△の提供が受けられる」と思って、その店に行く。そこにはいわゆるお客さんとお店の間に信頼関係がある。
さて、本当に書きたかったのは、お金とサービスの交換をすることで、人が互いに踏み入れる領域をある程度設定できるということだ。つまり、支払ってもらった金額よりもあまりに大きなことを無理にしなくていいということだ。「今から〇〇円を共有しましょう」ということ。そうすることで、サービスを提供する側は自分を守ることができる。
何が言いたいかというと、ただで、無料で何かをしてあげるのは、よろしくない、という、これまた多くの人が何度も言っていることだ。ただほど高いものはない、というが、無料サービスを受けてしまうと、そのやりとりに関していつまでも終わりが見えない。それと、何も生み出さない、ただの甘えが生じてしまうのである。「あなたに〇〇を提供します」「なら、私は、△△をお返しするわ」っていうやりとりをその都度重ねていくほうが楽だ。このやりとりは、「〇〇と△△が概ね対等な価値をもつものである」、つまり互いに共有するものの価値を確認しているということ。
こういうやりとりがないことで、かえって与えすぎたり奪ったりして、結局信頼関係が築けなかったり、あるいは壊れてしまうこともあるのだと思う。
だから、限られた時間やお金や命は、お互い共有しているね、という了解のもとで、やりとりができるなら、お金のシステムは本当に便利だな、と思うのである。
まだまだいろいろ思うことはあるけど、今日はいったんこれで終わり。
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