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ばななさんに 救われてきた わたし

「 それじゃあ、  言い直すよ。」
昇ーは言った。
「君の幸せだけが、  君に起きたいろんなことに対する復讐なんだ。」
「 あ、  かなりいい線になってきたみたい。」私は笑った。

上手に本の表紙を載せられない。ばななさん、すみません。装丁を担当された方、すみません。上に引用したのは、この本のあるページの言葉です。
ばななさんの本を読むと、自分に起きたことなんて、大したことじゃねえや、大騒ぎして、すんませんって気持ちになる。それぐらい、内容は重いし、登場人物もいわゆる「不幸」な状況に置かれていたりする。でも、読者である私は、いつも、確実に、癒やされるのだった。


私は久々にこの本を開いた。ばななさんの言葉をじっくり読むときは、心のサプリメントを欲しているときだ。以前、長年の心身の不調を解決しようとしていたときは、何度も何度も繰り返し ばななさんの本を読んだ。その頃は、幼少期からの、まあまあ面倒くさい状況で麻痺してた心や、あらゆる感覚を取り戻すことに取り組んでいた。

今は…私の書いてきたことをまとめて読むと、わかる人には分かるのだが、
今の私は…ここ数年の対人関係でのダメージを、こつこつと癒し、整理しながら、毎日やっているところなのだ。

人に対して怒っているのではなく、その人のしたことが、あまりに心ないものだったことに、自分は、まだ傷を負ったままなのかもしれなかった。具体的なことは、誰にも言っていない。大まかなことを知っている人はいなくはないが、詳細は本当に、誰も知らない。


そのことを通して、私は、いろいろ失ってしまうところだったかもしれないのだということに、何度も私の心は、ヒヤリとしたり、鋭い痛みを感じたりした。
そして、最近、自分の家での時間を、家族との時間を過ごすとき、「この時間が、今 ここに在る私の、そして大切な人と分かち合うものとして感じられている」ことに、驚きにも似た、安堵の気持ちでいっぱいになることが何度となくあった。というか、「この時間を失わずに、今私がここに在ることも、奇跡というか、何者からか与えられたものなのかもしれない」と思うことが、同時に、失うかもしれなかったものの大きさや重さを思い知らせてくれるのだった。思い知るということも、また痛みを感じさせるものであった。

人から奪うことについて、人を傷つけることについて、こんなにもあっさりとやってのけてしまう人がいるのか、ということに、私は、何ヶ月の間もずっと、すごくすごく、 びっくりしたままでいた。世間を驚かせる凶悪な犯罪は たくさん起きているけれど、そうではなく、「犯罪にはならないけれど」人をとことん傷つけることは、誰にでもできてしまうし、そして、一見そういうことを嫌っているように見える人が、自分の不安を紛らわせるために、あそこまで恥ずべきやり方で、人を嘲笑うことができるということに 呆然としていた。そう小さくないエネルギーを その人に対して、私は、費やしてきたのだけれど、それらを全て笑いながら踏み躙られるような、そんな経験をしたように感じた。私が関わろうとしたのが悪かった、という思いもなくはないが、どうしようもない流れが、関わらざるを得ないような、そんな流れができていて、気づいたら、そこに乗ってしまっていたという感じだった、と思う。

とことん失う、というところまではいかなかったものの、何かを喪失したという思い、そして、それを その人に奪われたのだろうか、あるいはその人に、踏み躙られたのだろうかという思いが、ずっと私の心を、足取りを重くしていた。びっくりするぐらい、私は、笑顔を忘れてしまったし、食欲も落ちたし、とにかく弱ってしまったのだった。弱ってしまうから、またそこに面倒な事態も引き寄せられたりして、なんせ、数ヶ月間、私は弱り果てた。

そして、数ヶ月過ぎていく中で、私は、家族との時間を過ごしながら、冒頭の言葉を思い出したのだった。
自分の幸せが、自分に起こったことへの復讐だということを。
そして、急に ああ、私は相手に何も奪われていないじゃないかということに、雷に打たれたかのように、やっと思い至ったのだった。相手は、ただ他者から奪いたいだけの人だったのだけれど、そして、時に吸い取るように他者から奪おうとする人だったけれど、私は、本当に何も奪わせていないということに思い至ったのだった。

これまで私が触れた言葉が、何年先になっても、私の心を救ってくれる。逆もしかり。何年経っても、心が抉られるような痛みを感じさせる、そういう言葉もある。言葉とは、そういうものなのだった。

この、今日の文章は、私がいかに傷ついたかということを言いたいものではない。
言いたいことは、
誰も、人の心をコントロールするような言葉の使い方をしてはならない。
誠実に用いた言葉だけが、人の心を、自分の心をすこやかにしてくれるのだ、ということだ。


ばななさんの言葉は、たくさんの人の心を救っていると聞く。ばななさんが、心からいろいろなことと向き合う中で生み出した言葉は、魂がこもっているものだと思う。

私は作家にはなれないけれど、ばななさんが物事に向き合う姿勢を見習いながら、自分の仕事に向き合っていきたいと思う。


私は、何も奪われていない。それが、今の私にとっての、大きな救いだ。

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