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十二月の蝉

 先日、指導主事による授業参観に関することを書いた。

 この記事に書いたことは特殊な例かもしれない。しかし、指導主事による授業参観に向けて、普段の授業以上に力を入れて準備をするということは、多かれ少なかれどこの学校でもあることだろう。自分が教師だったときにも、やっぱりそうしていたという記憶がある。

 一方、自分自身が指導主事だったときには多くの小中学校で授業を参観してきたが、教室に入ると、
「いかにも昨日作ったばかりというような真新しい掲示物」
「いかにも今日から初めて使いますよというような学習カード」
 をよく目にしたものだ。

 ・・・もっとも、こういう「よそ行き」の授業であっても、そこから普段の様子は想像できるものだ。そもそも教師と子どもの信頼関係の構築は一夜漬けができるものではない。取り繕ったとしても、メッキは剥がれてしまうのである。

 当時、先輩の指導主事から、
「参観をするときには、『化粧をする前の素顔を見抜くこと』が大切だ」
 と言われたことを思い出す。


 小学校と中学校を比べると、小学校のほうに「よそ行き」の授業が多かったという印象がある。

 通常、中学校は教科担任制であり、一人で複数のクラスを受け持っているため、参観用に一つのクラスだけ特別なことをやるわけにはいかないという事情もあるだろう。

 また、中学校の教師には、「俺は教育委員会なんか何とも思ってないもんね」というタイプの人が、小学校に比べて多かったような気がする。※個人の感想です。

 そのせいか、中学校ではよくも悪くも普段どおりの授業を見ることが一般的で、ときどき「参観中、ずっとテストの答え合わせをしている」という人もいた。

 しかし、小学校の教師がみんな準備に熱心かといえば、何事にも例外はある。

 ・・・それは、年の瀬が近づく12月に、ある小学校の3年生のクラスを参観したときのことだ。そのクラスの担任については、事前に校長から「指導力に課題がある」と聞かされていた。

 教室の後ろのドアから室内に入ると、まず、後方の壁面に子どもたちの書写の作品が掲示されているのが目に入ったのだが、その題字は、
「せみ」
 であった。

 もう12月なのに「せみ」である。
 おそらく、書写の教科書では7月ごろに書くための題字として配当されているのだと思う。

 久しく書写の授業を行っていないのか、最近になってようやくこの題字に辿りついたのか、それとも「せみ」以降の作品を掲示していないのか、真相は不明だが少なくとも季節感は皆無である。

 ・・・ちなみに、授業の様子は「推して知るべし」であった。


※「十二月の蝉」というタイトルを見て、「なにか心に沁みる話なのではないか」と想像していた方には、「申し訳ありませんでした」と謝るしかありません。

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