相似形
横浜市の市立学校には、若手の教師たちが学び合うための「メンターチーム」という取組がある。
横浜市では、2007年ごろをピークに団塊世代の教師が定年退職を迎えるのに伴って、年に1000人を超える新人教師を採用するという時期が続いた。もちろん、初任者に対しては学校の内外で研修が行われるが、2年目以降になるとその回数は一気に少なくなり、きめ細かい支援を行うことは難しい。また、臨時任用や非常勤の教師については、そもそも研修の機会がほとんどないというのが実情だった。
そこで、「教職員は学校で育つ」という合言葉のもとに、学校内で若手教師が学び合うことが推奨された、というのがメンターチームが発足した大きな理由である。
メンターチームのメンバー構成に明確なきまりはないが、入職から5年以内の教師を対象にしている学校が多いようだ。活動の頻度や形態、扱う内容などについては各学校の裁量に任されている。
横浜市教育委員会は、各学校の様々な取組の中からグッド・プラクティスを集約し、それを市内の学校に周知して横展開を図っているが、基本的には各校の主体性が尊重されている。
「今回のテーマは、板書の工夫について」
「次回は個人面談のポイント」
など、月に1~2回の活動のテーマをメンバーの希望によって決めたり、持ち回りで講師や情報提供の役割を務めたりする学校が多いようだ。
多くの学校では、若手教師の授業力の向上、児童生徒指導や校務のノウハウの共有などの面で、メンターチームの取組が寄与していると言ってよいだろう。また、お互いの不安や悩みについて打ち明けたり、相談し合ったりすることで、若手教師の心理的な安定を保つ役目もあると言えよう。
・・・先日、ある会合でこの「メンターチーム」について話題にしたところ、首都圏にある某自治体の指導主事の方からこんな質問をされた。
「どうして、教育委員会として一つの方法を明確に示さないんですか?」
私からは、
「横浜市内には小学校だけでも300校以上あって、それぞれ規模や教職員の構成、学校が抱える課題なども異なります。特定の方法がすべての学校に通用するとは思えません」
「学校が独自に工夫をすることで、主体的で継続的な取組につながっていくと考えているます」
ということを伝えたのだが、十分に納得してはもらえなかった。
どうやらこの指導主事の方は、
「教育委員会の施策というものは、明確でなければならない」
「学校現場もそれを望んでいる」
という信念をもっているようだった。
・・・たしかに、教育委員会の施策がブレてしまうと学校は混乱する。けれども、学校の実態を無視して画一的な施策を推進しようとすれば、かならず無理が生じてしまうだろう。足の大きさに合う靴を選ばなければならないのに、あらかじめ靴の大きさを決めてしまっては、ブカブカだったり窮屈だったりして歩きにくいのと同じだ。
また、教育委員会が何でも決めれば、その方が「楽でいい」という学校があるのかもしれない。だが、何でも上位下達で決定してしまうと、学校の管理職や教職員は「なぜ」「何のために」ということを考えなくなってしまうだろう。それでは実効性のある取組にすることは難しい。
ここから先は想像である。
この指導主事の方が勤める自治体のように、教育委員会と学校との関係がトップダウン型になっていると、職員室における校長と教職員の関係も似たようなものになるのではないか、と推測する。
そして、それは教室内の教師と子どもの関係にも「転移」をするのではないだろうか。
最近、「大人の学び」と「子どもの学び」は「相似形」だと言われることがある。「子どもたちが主体的・対話的に学んでいくためには、大人(教職員)の研修も主体的・対話的でなければならない」という文脈で用いられることが多いが、たしかにそのとおりだと思う。
そして、「相似形」になるのは「学び方」だけではなく、行動や環境についても同様だろう。教育委員会や職員室の風土は、教室にも「複写」されていくに違いない。
もしも、教育委員会や校長による「各クラスで『主体的・対話的』な学びを!」という号令一下でそうした学びが推進されるのだとしたら、それは喜劇であり悲劇でもある。もちろん、成果を期待することも難しい。
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