「カリスマ校長」が去ったあと(中)
(前回のつづき)
東京都千代田区立麹町中学校の学校経営を巡っては、SNSなどで次のような言説を目にすることが多い。
SNS上の傾向としては、元校長である工藤氏の学校経営を支持し、現校長のやり方に批判的な論調が多いように見受けられる。私自身も、どちらかといえば現校長への批判派の立場だった。
だが、昨年度に麹町中学校のPTAが行った堀越校長へのインタビュー記事を読むと、そうした印象がいささか変わってくるのだ(余談だが、このインタビュー記事のクオリティは極めて高い。一般的なWebマガジンの内容にもまったく引けを取らないと思う)。
このインタビューの全体をとおして、
「この校長先生は、どちらかといえば生徒の主体性よりも規律のほうを重んじる方なのだろうな」
という印象は受ける。しかし、それが「行き過ぎ」というほどではない。
また、
「教諭時代も含めて、生徒指導上の課題がある学校を立て直してきた『力のある先生』なのだろうな」
とも思う。
私が特に共感をしたのは、インタビューのこの部分である。
私は教育委員会に勤務をしていた時期に、多くの小中学校の実態を見聞きしてきた。そのなかには、「子どもの主体性」を大切にしながら十分な成果を上げている学校がいくつもあり、その後に校長を務めた際にはお手本としたものだ。
その一方で、「子どもの主体性」という名のもとに「指導の放棄」をしているような事例も見られた。そういう学校では「ぐいぐい前に行ける」子が学級を牛耳り、「ひっそり座って」いる子は萎縮をしていた。学級内に担任公認の「格差社会」が出来上がっていたのである。当然、その集団のなかでは「いじめ」もあった。
無論、元校長の工藤氏が目指していたのは、こういう「エセ主体性」ではない。だが、「子どもの主体性」を求めていくうえでの難しさに目を向けているという点からも、やはり現校長は「力のある先生」なのだろうと思う。
工藤氏による学校改革について現校長が見直しを図っている理由は、インタビューのこの部分に表れているといえるだろう。
これを読んで、
「高校に合わせることが中学校の判断基準なのか」
「そもそも、変わるべきなのは麹町中ではなく、高校や大学入試制度、そして社会のほうではないのか」
という感想をもつ方もいることだろう。
しかし、入試を乗り越え、高校生活へスムーズに移行させることは、中学校の関係者にとっての使命でもあろう。「ウチはウチ、ヨソはヨソ」では生徒たちが困るのだ。
様々な「改革」を元に戻していることに関して、生徒や保護者への説明や、お互いの対話が不十分である点は学校側に責任があるだろう。だが、現校長がやろうとしているのは公立の中学校としては普通のことで、これが麹町中学校でなければ話題にもならなかっただろう。
疑問として残るのは、
「なぜ『主体性』と『規律』が二項対立のようになってしまったのか」
ということだ。
「主体性」と「規律」は、けっしてトレードオフの関係にあるわけではない。たとえば、スポーツのチームづくりでも、近年はこの2つの両立を目指すのが主流だろう。「選手主体でマナーがよく、実力もあるチーム」というのは、どの種目にも存在するはずだ。
大きな学校改革を成し遂げた工藤校長はもちろんのこと、その後を受けた長田校長と現任の堀越校長のお二人も、東京都の教育界では名を知られた実践家だったようだ。「主体性」と「規律」の両立を目指すことは間違いなくできたはずなのである。
それを難しくさせたのは、「3年間」という日数にあったのではないかと私は考えている。「3年間」というのは、中学校にとって特別な意味をもつものだからだ。
(つづく)
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