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ささいなナヤミ

-Q:好きな食べ物は何ですか?

小学生の頃に流行したプロフィール帳には散々書いたのに、今更言う・聞くものではなくなってしまった。
そこで、改めて自分に問いただしてみる。
苺やパフェが好きと可愛こぶる自分はもういない。周りにどう思われようと、ただただ食べたいと思えるものが好きと言えるようになったし、自分の稼いだお金で好きなだけ食べられるようになった。上京して数年、何でも手に入るこの街で食べる・食べないの選択をしながら生きている。

-A:餃子です。

私は、餃子が大好きだ。焼き・揚げ・茹で、バリエーション豊かで、一口サイズのものからかぶりつくものまで。味変したら無敵である。私は味変はしないが、お店によって焼き方が違ったり自分自身で手軽に作れるのも魅力的である。絶対につけるのがカラシ。これはマスト。ラー油にプラスしてカラシをつける。私はこれで育った。どうやら餃子に何を使うかで出身地がわかるらしい… 私が感動したのが、池袋にある開楽というお店の餃子である。ここの餃子はかぶりつくタイプの餃子で、皮がもちもちとしており具もぎっしりと入って噛んだ瞬間ジュワっと肉汁と具材が溢れ出す。お店はこじんまりとした2階建だがいつも賑わっていて、料理が1階からどこか懐かしさを感じるエレベーターに運ばれてテーブルへとやってくる。店員さん同士の会話が日本語ではない感じだとかが、ほんの少しだけ現実逃避できる場所。

そういえば、以前いろいろ先輩な人物から「大好きって言えるのいいね。大人になると言えなくなってる」と言われたことを思い出した。お酒飲める?の質問に対して、お酒大好きです。と言ってしまった自分。アンサーとしての返しになっていないのだが、まさかそのような返しが大人からくるとは思いもよらず。。人に対して言えたらいいのだが、残念ながら私は人間に対してあまり興味がないため”食”に対しての感情にしか使っていないと気づいた。素直に大好きと言っていこう!とその場ではなったのだが、自分のなかでわだかまりが生じてしまった。"「大好き」という言葉は発信し続けて良いのか?" "食べることにしか使っていないじゃないか!" 自問自答を繰り返し辿り着いた先は、「”大好き”という感情は自分にとっての手綱になるのではないか」という真面目な答えになってしまった。大好きを言っていこう。そう、自分に微笑みかけた(つもり)であった。

日常として洒落た餃子の写真を発信したい。というか、記録として残したい。望んだデジタルタトゥーで何を掘るのか決まっているのに麻酔にかかったままのようなそんな感じ。これを投稿したらどう思われるかと自意識過剰になって、投稿したい生活の断片はたくさんあるのに下書きが溜まっていく。結局、プロフィール帳を書いていたあの頃の自分と変わっていない。
村田沙耶香さんのエッセイ『きれいなシワの作り方 淑女の思春期病』の一節に激しく共感を得た。
「いつになれば、私は何の抵抗もなく、お洒落なカフェのお洒落なお皿の写真をアップロードできるのだろう。別にそんなに無理してすることでもない気がするのだが、この自意識過剰からはいい加減、解放されたい。」
自分の評価対象としてSNSが用いられてしまう現代において、着飾りたいでも嘘や現実味の無さは避けたいという悩みに駆られ続けている。なんて贅沢な悩みだか。。自分の存在にほんの少しでも自信があったらと思う日々。
-食べて・学んで・働いて・食べて・食べて・寝て- ありのままを受け入れたら少しは楽になるのか、。自分の発信力が問われる時代に向き合い、ありのままに生きるしかないと思い今日の晩御飯に想いを馳せる。

end.


-引用-
村田沙耶香(2018)、『きれいなシワの作り方 淑女の思春期病』、文藝春秋

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