【小説】 鬼ヶ島は楽しいぜ
カーテンが少し開いているか。
ぼやけた視界の奥に、本棚に背中を預けてこちらを向いている君が見える。
目が合うと、あ、起きちゃった、って呟いて、僅かに笑ったように見えた。
時計の針は11時を指している。
彼女はスケッチブックを閉じて、僕の腕の中に潜ってきた。寝床を整える飼い犬のように、器用に体を収める。
抱きしめると、君は柔らかい。小さい。良い匂いがする。そして、暖かい。
差し込む日差しに照らされて、埃が舞い上がる。
テーブルの上では彼女の飲みかけであろうコーヒーが湯気を立てていた。
今日は二限があったんだけどな。
白い部屋で初めて見た彼女の顔はやけに赤くて、慣れない僕はとっさにピンポンの話なんかをしてしまった。
最後のペコとドラゴンの勝負の描写が凄くてね。
君が僕にキスをした。
唇を重ねるだけの、体温なんかまるで伝わらなかった、一瞬のキス。
とろけるような目で君は僕を見る、僕の胸に飛び込んでくる。
好きです、だなんて。
白い世界には確かに二人しか居なかった。居なかったはずなのに。
夜は僕らを包んで運んでいった。歴史に残れない僕らを、優しく慰めるように。
外では僕の代わりにセミが泣いてくれている。
本棚のピンポンに埃が被っているのが見える。
腕の中の君は「あ、黒目にほくろがあるね」なんて言って僕を見つめる。
僕が、三限はどうしようか、と言うと、彼女は僕をぎゅうと抱きしめて顔を埋めた。
部屋の隅の19インチに反射して、僕の顔が写っている。誰を守れる力も無ければ、誰を守っていい権利も無い。自分すら満足に助けられてない男が、画面の中で一人で笑っていた。
子供の頃は、困ったらなんでも母親が助けてくれた。
高校生になった辺りから、そんな母親に少し疑問を抱くようになったが、僕は甘えに甘えてここまできてしまった。
失敗が怖い。
誰かに後ろ指を刺されるのが怖い。人に嫌われるのが怖い。
生きてるほうがいい、と悩みを抱える人達には言い続けてきたけど、それって自分に言い聞かせていただけなんじゃないか。
自分に生きてる価値が無いって分かっていたから、潜在的に自分を助けようとしていただけなんじゃないか。
悪いやつばかりじゃないのは分かってる、実際生きてるほうがいいということも。
ただ、ただ。
大丈夫?うなされてたよ。
君が顔を覗き込んでくる。
かなりの時間、寝てしまっていたようだ。
カーテンは既に閉められている。
夜の空気が部屋に入り込んでいた。僕の心を不安にさせる、変に湿気を孕んだ空気だ。
心臓をヒヤリとした手が握り潰そうとしてくる感覚。あぁ、どうして僕は生まれてきてしまったんだ。
生まれてこなかったら、嫌な思いはしなかった。こんな気分にはならなかった。生まれてこなかったら。そんな考えが脳を支配する。
君は心配そうな顔をして、僕の手を握る。
怖い夢を見てさ、でももう大丈夫だよ、なんて言って僕は君の頭を撫でた。
君の顔がじんわりと晴れてゆく。ありがとう、それだけが特効薬なんだ。それだけが。
スーパーまでの道のりを、手を繋いで歩く。
本気を出せば握り潰せるくらい、小さな手だ。
僕の歩幅に合わせようとして君は少し早歩きになる、そこも可愛い。
素敵な数字が値札に書かれている。今日はそういう日なのだ。
まぐろ〜、と言って君は刺身のパックを軽く掲げた。
僕は、いぇーい、と言って小さく拍手をした。
それだけの海鮮コーナー。
あ、檸檬堂だ。
そう僕が口に出すより先に、君は二缶を握って、顔に寄せて笑った。
それだけのお酒コーナー。
私このパン好き〜、と言って君は北海道の形がプリントされた蒸しパンを取った。
僕も小さい頃北海道の部分だけ残して食べてたなぁ、特に意味なんか無いんだけどね。
あんパンを買おうとしたら、えぇ、粒あん派なの?と驚かれた。
まぁ、と言ってから何も言えずにいると、私あんまり食べたことないんだよね、だって。
じゃあ分けてあげるよ、と言って、粒あんパンをカゴに入れた。
嫌いじゃないなら、いくらでも好きになれるよ。いや、たとえ嫌いでもふとした瞬間に好きに変わることもある。僕らもそうだったし、いつかそうなれるかもしれないよ。
それだけのパンコーナー。
桃を自分で切りたいと言う彼女のために、一番高い桃もカゴに入れた。もちろん、そっとね。
桃はお尻が柔らかいほうが美味しいんだよ。
へー。
うん。
もーもたろさん、ももたろさん、彼女が歌う。
そう言えば、幼稚園の頃に桃太郎の劇をやったなぁ。あれ、僕は何役だったっけ。
それだけの青果コーナー。
レジに並んでいる間、彼女は店内に流れている音楽に合わせてダウンのリズムを取っていた。
僕も腰を振ってサンバのようなリズムを刻んで応戦した。
ただ、それだけのレジ。
このスーパーには人生が売っている。
誰にも期待しないことも、誰も信じないことも、やってみたけど辛かった。
誰にも期待されないし、誰にも信じてもらえない。とても寂しくて、虚しい。
どうせ苦しい思いをするのなら、息を切らして走っていたいのに。
一歩目で失敗するのが怖くて怖くて仕方が無い。転ぶかもしれない、フライングするかもしれない。構えが不格好だ、なんて笑われるかもしれない。
小学校一年生の時、僕はリレーの選手だったんだ。あの頃は運動神経が良かったんだよ。僕にバトンは渡されなかった、前の走者の女の子が転んで泣き出してしまったから。
高校生の頃、雨が降っていても傘も雨合羽も使わずに登下校していた。
あの頃は雨に打たれるのが好きだから、なんて周りに言っていたけど、本当は風邪でもひいて誰かに構ってもらいたかったんじゃないかな。
僕は今年、二十歳になる。馬鹿をやるほど若くもなく、深刻になっても絵にならない年齢だ。
ずっとバトンを待っていたけど、そりゃあ来るわけないよな。
傘はさしたほうがいい、雨には打たれないほうがいい。十七歳の僕にはそんなことも分からなかった。
心に降り注いだ冷たい雨は簡単には拭えない。深く奥まで染み込んで、いつまでも心を蝕み続ける。
僕はテイクオーバーゾーンを遥かに越えてしまったらしい。
お前なんかもう失格だ、と言ってくる人が居るだろう。
僕が今更走り出したとき、指を刺して大笑いする人が居るだろう。
だから、なんなんだろう。
生きるのは難しいよな。君だって、僕だって、偽りの人格演じて上手く群衆に紛れ込もうとしている。
出来損ないだって、もう自分では分かっている。
ただ、一つだけ言わせてくれ。
出来損ないに「おい、出来損ない!」なんて言うのは、鬼に「おい、鬼!」と言うようなものだ。船の上で群れながら御託並べて正義気取ってんじゃねぇ。お腰に付けてるの、人に貰った吉備団子だろ?
降りてこいよ、鬼ヶ島は楽しいぜ。
小林優希
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