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幽谷霧子と『物語性』を巡る物語(【窓・送・巡・歌】考察感想)


先日実装された霧子の【窓・送・巡・歌】コミュについての感想と考察です。

霧子の人間性や過去のコミュ描写について直接的な理解が難しかった部分への答え合わせともいえるような表現が多々含まれているため、霧子のカードコミュからどれか一つだけお勧めするとしたらこれが最適じゃないかと言えるほどに色々な要素が盛り沢山のお話でした。

詳細なネタバレがあるので内容を知りたくない方には引き返していただかざるを得ない記事になってしまいますが、

恒常カードといえど後込みせず霧子が好きな方にはぜひ引いてほしい(あるいはもし引けなくてもセレチケなどで取れるようになったらぜひ読んでほしい)と思えるくらい霧子P的には満足出来る良いお話でした!

ということだけはブラバする前に覚えていって下さればと思います。

限定も恒常青天井もどっちにしろガシャ商法はエグい……

このコミュのテーマについて

『窓送』の部分は葬送、『巡歌』は順化や純化とも掛かっていそう

今回の【窓・送・巡・歌】は、カード名やガシャタイトル及び【縷・縷・屡・来】と類似する思い出アピールの名称が示す通り、魂の循環を肯定する死生観を描く物語であると同時に(直接言明されるわけではないものの)様々な対象に『物語性』を見出す霧子独特の物の見方についてより踏み込んだような内容となっています。

『ゆく』『くる』『かえる』といったこれまで多用されてきた単語が示す内容についても、今回の話を読むとだいぶ感覚的に理解しやすくなるはずです

これまで漠然と描かれてきた霧子にとっての『物語性』を基準とした視点に自然と寄り添えるような構成となっているため、おそらくこのカードが最もロジカルかつ構造的に分かりやすくその意味合いを読み解けるような話になっているのではないかと思います。

てん、てん

一つ目のコミュ『てん、てん』は、霧子が休暇中おばあちゃんの家で掃除の手伝いをしてきたという話から始まります。

手伝いのお礼に貰ったというちりめん布で縫った巾着をPにプレゼントしてくれる霧子でしたが、家の引き出しの奥でほこりっぽい匂いが染み付くほど長年大事にしまわれていた布だったのでもしかすると外に出たくなかったのかもしれないと心配を口にします。

そんな霧子に対し、Pは巾着となってこの場所へやって来た布が少しでもここを居心地の良い所だと思ってくれるようにと色々な提案をしていく、というのが大まかな流れです。

霧子お手製のプレゼント……☺️(何気にあまり触れられたことがない手芸好き設定が活かされているのも嬉しい)

おばあちゃんの所から霧子の手に渡り巾着となってPの元へ転々と辿り着いた布の境遇を示すと同時に、当カードのコミュに於いてTrue Endに至るまで重要な意味を持って出てくる『ほこり』のイメージが、この『てん、てん』というコミュタイトルに反映されているといえそうです。


余談ですが霧子に関して『てん(点)』というと、カード名に付く中点【○・○・○・○】がまず真っ先に連想されるかと思います。

点で区切った文字を並べて内容のイメージを想起させるこの独特な表現も、ある意味で後述するような霧子の『物語性』に関する視点を象徴しているとも考えられます。

例えば霧、娘、空など、カード名に使われているそれぞれの漢字は、単独だとただの字としての意味しか持ち得ません。

ですがそれらの文字が霧子の物語のタイトルとして区切られ当て嵌められることで、霧は霧子の存在を、娘は霧子やアンティーカの面々を、空は鳥が飛び立つ青空や薄日が差す雨上がりの空など物語の中で見る特定の空を表すものへと変わり、独自の意味と存在感を持つようになります。

『霧ちゃんに向かう心』というのがまさしく外界に物語性を見出す主観であり、そうした心のはたらきがある故に私たちも点々で区切られた霧子のカード名の文字たちに意味を見出すことが出来る

LP編に於いて、AIの霧ちゃんは外界にある個々の事物を識別することは出来てもそれらの情報を何らかの感動を呼び起こす意味あるものとして結び付けることまでは出来ない、という話がありましたが、まさしくそうした主観を通した区分でただの事物に独自の意味を持たせられる精神活動こそが物語性の発見であり、霧子のカード名に付く点々が暗に示し担っている役割であるともいえるのではないでしょうか。

それを踏まえると点々が無い【かぜかんむりのこどもたち】は『ストーリー・ストーリー』で言うところの『物語じゃない』あるいは『感光注意報』での『シャッター音が聞こえない』時間を生きている瞬間の話でもあったのかも

行く場所

二番目のコミュ『はし、る、ゆく』では、Pと霧子がロケ地へ向かう新幹線の車内で目まぐるしく様変わりしてゆく窓の外の景色を眺めながら、もしかするとトンネルを抜ける度に違う世界へ移っているのかもと他愛のない会話を繰り広げます。

どことなく【夕・音・鳴・鳴】のTrue Endで言及されていた『人や物を知らないうちに別の場所へ移してしまう妖怪』の話を思い出す内容ですが、このカードでも場所や記憶といったテーマが最後まで深く関わってくることになります。

続く三番目の『しみいる』及び四番目の『窓を開ける人』ではロケ先での仕事の様子が描かれ、霧子が戦時中の時代に生きていたとある画家の生家を案内する番組のナビゲーターを務めることになります。

この画家の半生や人となりについて詳細に明かされることはありませんが、『キリコ』という名前の幼い娘がいたこと、戦時中に抑留されていた地で娘の落書帳を持ち歩き心の支えにしていたこと、戦後都会の画壇に招かれる地位を得ても尚地元の生家へ帰る選択をしたことなど、作中で描かれている情報だけでも辿ってきた境遇や抱えてきた心情についてある程度想像が及ぶようになっています。

抑留経験のある画家は現実にも少なからず実在していますが、特定の人物の史実に基づいているというわけではなくあくまで作中オリジナルの人物の話かと思われます

画家が帰郷を切望したという田舎の片隅にある生家は周囲に何も無いように見えるほど殺風景な場所であるものの、それでも画家にとってはここに何かしら意味を見出だせるものがあったのだろうと思いを馳せながら、Pと霧子は番組を見る視聴者にも画家が感じていた何かが伝わればいいなと語らいます。

同じものを見て同じように感動出来るということは芸術に於いても人との繋がりに於いても原点となる感覚で、「あなたに見えているものがわたしの形をしている」ということでもある

一見無意味に見えるものでもそこに込められた思いを他者が受け取ることで意味が生まれるというのは絵画に限らず芸術や文化活動全般の本質に関わる原理ですが、同時に霧子が見ている世界観を成り立たせているのもその仕組みに近いものだということが、ここでの二人の会話から自ずと察せられるようになっています。

私たちが何らかの作品を鑑賞する時、例えばそれが作者の戦争体験から来る深い平和への願いによって作られたものである場合、直接凄惨な戦争の様子を描いたものではなく表面上は平穏な世界観の作品であったとしても、何かしらその奥にある切実な思いを無意識に感じ取るようなことがあります。

今回のコミュで画家の生涯について最低限の情報しか描かれていないにも関わらず読者が彼の娘と故郷への思いやその裏で背負ってきたであろうものについて想像出来るのも同じことで、それを可能にするのはまさに事物の奥にある物語性を感じる主観、あるいは心と称されるものに他なりません。

日々の走り込みやレッスンの最中はまだただの靴音でしかないものがいずれステージの上で音楽になってゆくという【奏・奏・綺・羅】での霧子の発想も今回のロジックに近い

対象へと向かう個々人の主観(心)があるからこそ、何の変哲も無い景色が誰かの思い出の場所となり、元は図柄や文字の組み合わせでしかない創作物が人に感動を与える作品となり、ただの物体や現象でしかないものが物語性を持つ擬人化された客体となり、物理的に実在しないキャラクターが独立の人格を持った人間同様の存在にもなり得るのです。

(アイマスシリーズの商法は特にその性質が強く、演者さんのリアルライブで観客がそのキャラがステージに立っている様子を想像するという図式なども物理的な次元しか見ないのならただ声優さんが歌を歌っているという事実以外に何も無くなってしまうため、まさしく個々人の主観を通した世界観を肯定しなければ成立し得ないものです)。

霧子は日々を生きる上で常にそうした物事の裏側にあるプロセスを尊重しており、ともすれば忘れられがちなその繊細な感覚を自然と周りの他者にも気付かせてくれる存在なのだということが、今回のコミュを通じてより万人に分かりやすい形で明瞭に語られているといえます。

帰る場所

番組撮影の合間、Pと霧子は画家の生家の隣にある小さなアトリエへ一羽の蝶が入って行くのを目にします。

蝶はしばしば魂の象徴とされる生き物であり、また娘のキリコによって誰かの帰りを待つかのように描かれた絵があるこの場所へ「ずっと帰りたかった」と言っている第三者のモノローグが入ることから、順当に考えればこの蝶は生前の思い出が残る場所を巡って行き来している画家の魂だったのだと思われます。

(あるいは画家の死後生家を管理しているのが近しい親族ではなさそうなことから娘のキリコも戦時中に亡くなっている可能性があるため彼女の魂であるか、もしくはコミュ全体の内容を踏まえると特定の誰かの霊魂というよりその場所に残った様々な人の思念や思い出そのものが形になったと見る方がより適切なのかもしれません)。

物理的にある場所を離れてもそこにいた者の心やその場所自体に記憶と思い出は残り続ける

この向かうべき・帰るべき居場所の重要性という概念は今回のコミュに通底するテーマとなっていて、True Endに於いて事務所に帰って来たPと霧子が交わす会話の内容や、物語の締め括りにロケ先から一緒に付いて来た『ほこり』が望む居場所に帰れるよう霧子が祈るシーンによく表れています。

ちいさいほこりさんの一粒一粒にも心と記憶が宿っていて各々に見たい景色や居たい場所があるのかもしれない

例えばよく「居場所が無い」とか「自分の居場所が欲しい」などという言い回しをすることがありますが、それも物理的に寛げるスペースが無いという意味ではなく、共同体や他者からの承認、自己肯定の可否などによる主観的な感覚と密接に結び付いた話です。

自分が望む景色のある居場所へ帰れるというのは究極的な存在の肯定と救いであり、つまるところ幽谷霧子は周囲の様々な対象に心を向け物語を見出すことでそれらが各々の居場所へ行き来出来るよう窓を開け導いてあげる役割の人なのだということが、この【窓・送・巡・歌】のコミュで改めて純化した形で描かれたのだといえます。

(それらの点を鑑みると、【縷・縷・屡・来】に於ける『るるるく町の動物たち』や海で霧子が出会った存在たちも今回のコミュに出てきた蝶やほこりに近いものと考えられますし、【空・風・明・鳴】のTrue Endの題名『おうちにかえろう』が指す場所もここでいう居場所の概念に通じるものなのだと思われます)。

霧子本人もまた心のどこかで自分が帰るべき場所となる景色を探し求めている側面があるのかもしれません

以前霧子に関して

「ソシャゲ媒体の作品はサービス終了後残る物が何も無い」という旨の記事を書きましたが、「その場所に物理的な何かは無くとも人がそこで思い出の時間を過ごした情報は時空を超えて永久に残ってゆく」という今回の物語は、ある意味でそうした命題への回答にもなっているように思いました。

シャニマスの先々の展望や物語の結末については知る由もありませんが、霧子や283プロのアイドルたちが帰る場所を見付けてゆけるような、あるいは彼女たちを見守ってきたこちら側の『プロデューサー』やファンたちもそれぞれが納得し自分だけの景色を得られるような作品創り及びサービス展開をしていってもらいたいと、今後も切に願うばかりです。

少なくとも霧子にとって今いる場所が巡り帰って来たい居場所になっているというのはそれだけでとても嬉しいことのように思います

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