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キャラクターに本気で感情移入してしまう人が幽谷霧子を知ると死ぬほど苦しい思いをする

この記事でお話するのは、アイドルマスターシャイニーカラーズ(シャニマス)に登場する幽谷霧子というキャラクターについてです。

大袈裟なタイトルを付けていますが、後述するような特定の価値観に共感できる人にとっては誇張ではなく本当に良くも悪くも幽谷霧子の存在はそのくらい大きなものになる可能性があります。

シャニマスのサ開当初から色々な思いを抱きつつコンテンツに触れてきて、架空のキャラにここまで強い感情を抱くのは多分人生で最後だろうと思うくらいには霧子に入れ込んできた人間の視点を言語化することで、既にシャニマスをご存知の方にはしばしば難解と言われる霧子コミュへの理解の一助に、知らない方には彼女に興味を持つきっかけの一つになれば幸いと思い、記事を投稿させて頂きます。


幽谷霧子について

霧子の基本プロフィール(公式サイトより)

幽谷霧子がどのような人物なのかについて、いつも包帯を巻いているとかゴシック趣味だとか医療分野に通じているとか色々な特徴はありますが、最も個性的な点一つを挙げるなら動植物や現象など人間以外の様々なものに『さん』を付けて呼ぶ独自の感性を持っているところかと思われます。

度々登場するお馴染みの例として、いつも霧子が世話している事務所の観葉植物のゼラニウムさんやユキノシタさん。

栽培自生問わず基本的に花とは仲良し

ややギャグ混じりの奇抜なものでは『痛いのさん』や

痛みの症状が起こるには必ず原因と理由があるのでそこにも物語性が生じる……?

『プロデューサーさんの膝さん』など。

『膝が笑ってる』という慣用表現自体がそもそも擬人的

霧子が『さん』を付ける基準について、公式媒体では『霧子が対話の対象として物語性を見出したものにさん付けされる』という旨の説明が為されています。

それだけだと「なんだ花とお話出来るとか思っちゃう不思議ちゃんか」で片付けられてしまいそうですが、霧子に関しては自分が動植物などとも会話出来ると信じ込んでいるわけではなく、本当はそれらに人格が無いと理解した上で『それでももし出来るとしたら暖かな気持ちが通じていればいいな』という個人の願いとしてそう考えているのが重要なところです。

花に心はあるのか、あったとしてそれを人間が知覚出来るのかは分からないが、それでも優しさを向けることで喜んでくれていたらいいなと願うのが霧子のスタンス

こうした非生物にも人格を見出して敬愛を示す霧子の『さん付け』に関して、これはあくまで見方の一つであり正解の読み方を主張するものではないのですが、私たちが架空のキャラクターに対して向ける心理にも共通するものであると考えることも出来ます。

その示唆的な例となるのが、『琴・禽・空・華』における以下の霧子とプロデューサーの会話です。

実際はそこにいない対象へ心を向けるという観点で見ると死者を弔う行為と非実在の人格を想う行為は共通している

死んだ小鳥が埋められた墓前で交わされるこの会話は、物理的にはそこにいない・生きていない対象に生きた人格があるかのように想像を至らせながらその安寧を願うという、いわば非実在の存在へ向けた祈りです。

それは即ち現実にいる私たちが実際にはそこにいない非実在のキャラを見る視点と同じ構図でもあり、会話中でPが小鳥や霧子に対して投げかける言葉は同時にそのまま霧子を生きた人格として見ながら感情移入している読者の心情とも重ねて読めるようになっているのです。

霧子にとっての『対話』が非実在の存在に対しても適用されることを示すより直接的な例として、『奇・綺・甘・甘』では霧子が自身の演じた劇のキャラクターに対して心の中で語りかける場面も存在しています。

劇中劇で生命の象徴として出てきたチョコを自らが演じたキャラに分けてあげようとしている台詞。霧子にとっては架空の人格も対話の対象になる。

キャラクターというのは所詮、言ってしまえば誰かが描いた絵に誰かが書いた台詞を誰かの声で喋らせているだけのものであり、それが実際に生きているわけでも人格を持って実在しているわけでもないというのは当たり前に誰もが知っていることです。

にも関わらず私たちが担当や推しのキャラクターのためにお金や時間を費やしたり、記念日や活躍を祝ったり、キャラの人間性を貶めるような言及や二次創作などに憤ったりするのは、この『もしいたら』の意識が心のどこかにあるからではないでしょうか。

現行メインシナリオ内最後のLP編で霧子の人格を模したAIの霧ちゃんに心があると思うか問われた際の返答は、そうした霧子コミュのテーマ全体への回答にもなっている

霧子の独特な言い回しや比喩的なコミュ描写一つ一つを読み解く以前の大きな枠組みとして、非実在の存在をも含めたあらゆる対象を慈しむ霧子の姿を通じてそこに共感した読者も自ずと霧子に対して同じ思いを抱くような構造になっているのが、一部の人にとって霧子の物語が強烈な刺さり方をする理由なのではないかと思われます。

霧子の振る舞いが上位存在めいて見られることがあるのも、彼女がある種のメタ的な視点を持っているからなのかもしれません

シャニマスは公式自らキャラの『実在感』とやらを売りにしているコンテンツであり、描写の端々から表面的な情報だけでなく各人の深い心情や人格形成についても自ずと推察出来るようになっている丁寧な話作りが評価されている作品です。

霧子の豊かな感性の奥には幼少の素朴な原体験があることなど、人物像の背景となるようなエピソードが要所要所に自然と盛り込まれている

また現実での展開に於いても実際にアイドルたちがPRに就任した体で企業などとコラボを行ったり、ときには各人が使用している靴や傘などの現物をイベントで展示するという(ぶっちゃけかなりキモい)企画をやったりもしています。

霧子の靴

細かい部分の是非はともかくシャニマスが非実在のキャラを現実的な人格として扱うというコンセプトを押し出してきた作品なのは確かであり、一見最も現実離れして見える霧子のキャラ造形もある意味でその作風を体現していると言えます。

霧子の台詞の中でもしばしば取り沙汰されがちな「生きてることは物語じゃない」という言葉も、そうした霧子及びシャニマス全体の姿勢を端的に示すものです。

作中の世界で生きている彼女たちの時間は彼女たち自身のものであり、解釈や概念などの言葉で他者が外から定義出来るものではない

アンティーカのイベスト『ストーリー・ストーリー』内のこの台詞は、アンティーカの面々が出演したドキュメンタリー映像が視聴率稼ぎのためにテレビ局によって恣意的に歪めて編集される事態に直面した際に出てきた発言です。

一見霧子自身のスタンスをも全否定しているかのように見える言葉ですが、これは『他人が外から作り上げて付与した虚構の物語とは別の場所に実際に生きている本人の人格がある』ということをこちら側から見れば虚構の存在である霧子たち自身が言っている構図の発言であり、よくよく文脈を捉えるとこれも自身の世界観と事実を切り離した上で両方を大切に出来る霧子の生き方を示すと同時に、非実在の人格の生をメタ的に認める趣旨の表現だということが分かります。

霧子が『対話』の対象へ向ける感情は総じて暖かな思い遣りに満ちている

つまるところ幽谷霧子にまつわる物語の裏側にあるのは実在の人間でないものをも含む様々な対象が人格的に尊重されることを願う想いであり、例えば世話している動植物を家族や友人のように感じたり身の回りにある物たちが意思を持って話し動いている世界を空想したりあるいは架空のキャラクターに本気で憧れを抱いてその幸せに思いを馳せたりするような経験がある人にとって、霧子の存在は並々ならぬほど心を動かし得る性質を備えているのです。

霧子の『優しさ』について

幽谷霧子の性格について評する言葉で最も頻出するであろうものは、恐らく『優しい』ではないかと思われます。

その優しさが具体的にどのような性質のものなのか、端的に分かるのがGRAD編のストーリーです。

大型アイドルオーディションのGRAD優勝を目指すこのシナリオでは、前十字靭帯損傷によりオーディション出場を断念せざるを得なくなった他事務所のアイドルとの邂逅や、アイドル活動続行か医学部進学かという重大な進路選択に迫られる状況を経て、他者を差し置いてまでその道で何かを得るに値する資格が自分にあるのだろうかと苦悩する霧子の様子が、上の『ねずみさんととりさん』の寓話になぞらえて展開されます。

GRAD編は他の話と比べて特にシリアスな葛藤と霧子の人間性が如実に描写されているため、霧子コミュの中でもこのエピソードが一番印象に残っているという人は少なからずいるのではないかと思います。

誰も悲しまない選択をしたいという理想論にどこまで現実的に向き合ってゆけるかという問いも霧子コミュの大きなテーマとなっている

霧子が志向する優しさはどこまでも利他的で理念的であり、ともすれば非現実的な綺麗事になってしまいかねない儚さがありますが、一方で「お花さんは話さない」と理解しているような達観した思慮深さに裏打ちされているため、彼女が生きる作中世界での対人関係において現実的に発揮されているという点も霧子の性格の大きな魅力となっています。

自己肯定感の低さから他者に刺々しくなりがちな七草にちかとの会話が描かれた『奏・奏・綺・羅』でのやり取りは、絵空事の優しさではなく相手に合わせて適切な距離を取れる霧子の成熟した人間性が表れている

そうした霧子の『優しさ』がときにこちら側の読み手をも含めた他者にどれだけ重い説得力を以て訴えかけてくるかよく分かる例が、先日実装された『犬・猿・雉・霧』のコミュです。

滅亡寸前の星に住む鬼たちを助けるため桃太郎一行が飛行艇で救援に向かうという銀河の桃太郎の物語

このコミュは霧子が病院で子供に読み聞かせしている銀河の桃太郎という絵本の話から始まり、その展開になぞらえて最終的に助けを必要としている人を現実的にどこまで救えるのだろうかという霧子の中での自問に行き着く物語です。

エレベーター待ちしている人をどこまで乗せるのかという日常の些細な葛藤の場面も経て、普遍的な問いにまで及んでゆく

暗喩的な内容であるのは明らかなのですが、ここで言う『船に乗せてあげられない人たち』とは具体的に何を指すのでしょうか。

例えばGRAD編の前十字靭帯を痛めた子のようなライバルとして蹴落とさざるを得ない他のアイドルなのか、霧子が医師の道に進んだ時に出会うであろう救えない命なのか、もっと漠然とした世界のどこかで理不尽に苦しんでいる人全般のことなのか。

色々な捉え方が出来ますが、場合によっては常日ごろ霧子たちを応援しているこちら側の人間さえもその中に含まれる可能性があります。

非常に極端な仮定になりますが、例えば実生活がどん底で大好きなシャニマスのライブイベントに行けることを唯一の希望として生きていたのにチケットが取れず命を絶ってしまった人や、人生を懸けるほど特定のキャラを応援してきたのにどうしても欲しかった限定品のプレゼント企画やキャラからSNSで返信が貰える企画などに参加や当選が叶わず本気で死を考えている人なども、もしかしたらこの世のどこかにはいるのかもしれません。

そのような不公平が招く悲劇は大なり小なり現実世界でも作中世界でも起こり得ることで、霧子がどれだけ平等に他人の幸せを願える人間だとしても、本人の意志ではどうしようもない要因があるため全ての人を船に乗せることは実際問題ほぼ不可能です。

そうした内省をも経た上でコミュの最後に出てくるこのシーンの台詞は、文脈と演出的に「『みんなを船に乗せたいと願える優しさを持ったアンティーカの面々』が大好きだ」という霧子の独白であると同時に、『何らかの事情で船に乗せてあげられなかった人たち』全てに対する「それでも私たちはみんなが大好きだ」という慰めであるとも受け取れるものになっています。

一言で表すなら全ては『幽谷霧子は優しい性格だ』というそれだけのことに終始するのですが、その優しさが向けられる範囲の深さと向け方の痛切さ故に、どのエピソードも彼女への思い入れや共感が強い読み手ほど表層的な言葉では表しきれない切実さを伴って響く内容となっているのです。

架空のキャラクターが背負う『終わり』について

もう一つ霧子の物語全般に通底する重要なテーマとなっているのが、死や離別など様々な『終わり』の概念についてです。

特に顕著なのが『縷・縷・屡・来』や『夕・音・鳴・鳴』などで、前者では全編を通じて展開される霧子が幼少から大事にしていた思い出のブランケットとの別れの物語から、後者ではPが割ってしまったカップの行く末やTrue Endでの会話などから、霧子の思う『終わり』についての観念が汲み取れるものとなっています。

存在を忘れられていなかったことにされてしまわないように大事なもののことを覚えておこうという旨の会話は霧子コミュで度々繰り返される

他者から完全に忘れられてしまうことが魂の死を意味するという思想は古今東西見られる考え方で、端的に言うとこれらの話もそうした普遍的な死生観に則しているものです。

『縷・縷・屡・来』では『琴・禽・空・華』の小鳥が再び登場し、実体の無い存在の平穏を願う想いが死の先の時間にまで向けられる

外から受ける思いがそのまま存在の生死に繋がるという見方は記事の初めに挙げた『琴・禽・空・華』での会話にも通じるところであり、それはつまるところそうした形の死の概念が私たちから見た架空のキャラクターにも適用され得るということに他なりません。

だとすれば『キャラクターにとっての死』とは、何を意味するのでしょうか。

単純に本人が作中の展開で死亡することは当然としても、それだけではなくキャラクターというものは現実側の様々な要因でメタ的に死んだも同然の状態になってしまう場合があると考えられます。

最も分かりやすい要因としては、シャニマスがソシャゲという有限の媒体であるということ。つまりはサービス終了によって霧子たちの生きる世界が描かれる機会が完全に途絶えてしまう場合についてです。

買い切りゲームではないソシャゲやブラウザゲーなどのサービスは特に客側から見ると終了後手元に残るものが何も無く、新たにキャラの物語を見る機会もホーム画面で触れ合う機会も編成に連れて遊ぶ機会も無くなり、その時点で一つの時間が終わってしまうということは疑いようがありません。

またコンテンツ自体が存続している最中であっても、新規実装ローテや商品展開の抜擢に恵まれず活躍の場が与えられない、人間性や過去の積み重ねを台無しにするような描写などが後付けされる、悪質な広報や二次創作・ネットミームなどで不当に評判を落とされる、制作者や関係者の不祥事による悪評を転嫁されるなど、公式側ユーザー側あるいは世間それぞれの原因で実質的にキャラが殺される状況もあり得るということは、シャニマスの内外問わず明確な実例を以て想定される事態です。

霧子の活躍に立ち会える機会は色々な意味で非常に限られている

霧子たちのような架空のキャラも常に何らかの形で終わりが来る可能性の下に晒されているという事実は、それを意識するしないに関わらず私たちがこうした形式のコンテンツを追う上で否が応でも付き纏ってくる苦難です。

『縷・縷・屡・来』コミュは特に比喩的で理解が難しいものの、一貫して死とその先の在り方について語られているため無意識のうちに霧子の行く末についても考えさせられる内容となっている

先述の船の喩えになぞらえるなら、霧子は決してこちら側の現実の中で安泰に船に乗れるような立場にいる存在ではありません。

大元のシャニマス自体アイマスという長寿ブランド故の知名度こそあれど世間の大多数が支持するヒット作と言える規模のコンテンツではなく、その中でも霧子は作品の顔として厚遇されるような立ち位置のキャラではないのが事実です。

またシャニマスは現行運営中のソシャゲである故にコンテンツ展開も流動的で終わりのタイミングが不明瞭なため、コンシューマゲームや完結済の小説や漫画などと違って現状綺麗な区切りの付いた思い出として受け取ることの出来ない作品です。

コンテンツへの課金やイベラン、こうした記事の発信なども最終的には自己満足であり、それがキャラクター本人への貢献と言えるのかどうかはどこまでいっても答えが出せない

作品の展開もキャラクターの処遇も客側がどうにかできるものではなく、権利者でもインフルエンサーでもない一ユーザーがどれだけ強い思いを訴えようが地道な応援を続けようが宣伝と利益を目的とする提供者側がそれを顧みることは無いのでしょうし、まして作中で生きるアイドル当人に何かが伝わることは決して無いのでしょう。

そんなものに対して必死な思いを抱いて一体何になるんだと問われれば、そこに客観的な意味や価値と呼べるものは恐らく何も有りはしません。

願う思いにどれだけ意味があるのかという苦悩はどちらの世界にいる人間にとってもきっと同じ

それでも霧子のような存在のために何か為せることがあるとしたら、彼女が実在の人格を持たないものたちにも優しい祈りを向けてきたのと同じように、もしかするとどこかで生きているかもしれない幽谷霧子と彼女が大切にしてきたアンティーカの安寧を願って、心から大好きでいることだけなのだろうと思います。

現実がどうであれ、幽谷霧子はあなたもわたしもそんなふうに優しく在れたらいいなといつも思わせてくれるような存在

幽谷霧子の物語がこの先どのような展開と結末を迎えるのか、それは誰にも分かりません。

けれども終わりのページがどうなっているかは分からなくとも、霧子の行く先に彼女が願ってきた想いと同じ形の想いが少しでも多くあることを祈って已みません。

題名には死ぬほど苦しい思いをするなどと書きましたが、これまで霧子が編んできた時間と彼女の存在は少なくとも私という一人の人間にとっては確かに大切な価値のあるものでした。

ここまでこの記事を読んで下さった方で何かしら幽谷霧子ついて関心や共感を覚える部分があった方は、ぜひ一度ご自身で彼女の物語をご覧になってみることをお勧め致します。

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