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【絲斬り蘇芳】 言の葉の滴

 西の都から離れた揺葉(ゆるは)の集落にその娘はいた。
 標高険しい山の斜面には青々とした茶畑が段々と連なり、そして畑に寄り添うようにして点々と民家が並んでいる。
 ここら一帯は茶葉の産地として有名で、住民たちは茶を栽培して売ることで生計を立てていた。
 その茶畑のひとつで、照りつける陽ざしの下、笠を被ったひとりの少女が着物の裾をたくし上げ茶摘みに精を出している。
 指先につけた剃刀で新芽を刈る手つきは慣れたもので、手際よく芽を摘んでは腰に括り付けた籠に入れていく。

「おーい、譲葉(ゆずりは)! 今日はこの辺にするか」
 太陽が中天から西に傾いてしばらく経ったころ、下の畑から声がかかり、譲葉は汗を拭って曲げていた腰を起こした。
 声のした方に顔を向けると譲葉と同じように籠をつけた柘榴(ざくろ)がぶんぶんと手を振っているのが見えた。
「俺は荷物を片づけてくっから、先に戻っててくれよぉ」
 譲葉はその言葉に頷いて手を振り返す。地面に置いていた他のふたつの籠を両手に掴み、譲葉は歩き始めた。
 籠は茶葉で溢れている。今日も豊作だ。畦道をのぼり切り、砂利で均された本道に出た。
 振り返れば、夕焼けに赤々と畑が照らされていた。
 ここから眺める景色が、譲葉はたまらなく好きだ。譲葉の肩で切り揃えられた髪を風が揺らし、汗ばんだ身体に気持ちよかった。
(そろそろ家に帰って、夕餉のしたくをしなきゃ)
 景色に魅入っていた少女は、我に返り軽く頭を振った。
 もし柘榴の方が先に家に戻ってしまって、自分がいないなんてことになれば大騒ぎをするに違いない。
 しかし、歩き出そうと踏み出したその足は不自然な体勢で止まることになった。

 道の少し先に大きな黒い影が蹲っていた。

 影は墨のように黒く、その輪郭は陽炎のように揺れている。
 それはもぞもぞと身動ぎしたかと思うと、体を揺らしながら立ち上がった。歪ながらも、人のような形をつくる。
 風が吹き抜けた。
 譲葉の持つ籠から茶葉がいくつかこぼれ、宙に舞った。風に漂う腐臭が譲葉の鼻をつく。
 ごくりと譲葉の喉が上下した。
 ──あれは。あれは、異境者だ。
 うつし世の理から外れた者。
 彼らは周りの生気を奪い取り、腐敗を撒き散らす。その証拠に影が通ってきたであろう地面は焼け焦げ、草木も土もどす黒く朽ちていた。
 譲葉もその存在を噂には聞いていたが、目にするのは初めてだ。この山で今まで異境者なんて出たことがなかったのに。
 このままこっちに来られた、畑が駄目になってしまう。
 いや、もしも下の集落の方に行かれたら──。
「──っ」
 ざくろ。
 唇を何度も動かして喘いだが、喉からはひゅうひゅうと音が鳴るだけで言葉にはならない。
 ……彼女は、随分と前から声を失くしているのだ。

「譲葉、逃げろ! そっちのあんたもだ! 危ねえぞ!」

 譲葉の想いが通じたかのように、異変に気付いた柘榴が畑を掻き分けて駆け上がって来る。
 柘榴の言葉に、譲葉は初めて自分以外の人間がいることを知った。
 影を挟んで反対側に、笠を被り腰に刀を帯びた人物──侍、だろうか?──が団子を片手に麓に落ちる落日を眺めながらこちらに歩いてくるのが見えた。
 ゆっくりとした足取りで、影の存在には気づいていないらしい。
 影の動きが止まり、頭部にあたる部分がゆらゆらと動く。
 譲葉と侍を交互に見ているようだ。
 譲葉は足が竦んで動けずにいた。がたがたと恐怖に震えながら様子を見守るしかできない。
 影は、侍の方に向きを変えた。最初の標的は侍にしたようだった。
 ずるずると這うような音が聞こえる。意外にも動きは速い。もうすぐ侍に追いついてしまう。
(お願い! 逃げて!)
 侍の足が止まった。ふい、と顔が動き笠の下の目と譲葉の目が合ったような気がした。
 そして、次の瞬間、その侍はおかしな動きをした。
 食べ終わった団子の串を持った手を伸ばすと、何もない空中を下から上にすくったのだ。
 ──ぷつん。
 何かが切れる音が聞こえた。
(え?)
 侍に迫っていた影の動きが、からくり人形のぜんまいが切れたかのような不自然さでぴたりと止まった。ぐらぐらと体が揺れ、影は、どうっと地面に倒れ込んだ。
 砂埃が舞い、影は地面に染み込むように消える。残ったのは黒い焦げ跡だけだ。
 譲葉は何が起こったかわからず何度も目を瞬かせた。

「譲葉、無事か!?」
 追いついた柘榴が譲葉に駆け寄り身体を上から下まで触れていく。どこにも怪我がないことがわかると柘榴は腰の籠から茶葉がこぼれるのも気にせずへなへなと地面に座り込んでしまった。
「怪我はないか?」
 その声に譲葉はパッと顔を上げた。近づいてきた侍は驚いたことに女性だった。
「お前ェ、女人か!?」
 隣で柘榴が素っ頓狂な声をあげた。あんまりにも大きな声だったので驚いて譲葉の肩がびくり揺れる。
「どうかしたか?」
 女性が首を傾げるので、譲葉はぶんぶんと首を振った。柘榴を睨みつける。
「い、いやあ、女人の侍なんて珍しいと思ってよ」
 頬をかく柘榴を無視して、譲葉は影がいなくなった跡を指差した。
 どうして影が消えたのか、聞きたかった。
 女は首を傾げたまま、身振り手振りで懸命に意思を伝えようとする譲葉の様子を眺め、
「……ん。もしかして、あんた、話せないのかい?」
 譲葉は小さく頷いた。
「そうか。それは色々と苦労も多いだろう。もうさっきみたいのが現れることはないと思うけど、夜の戸締りはくれぐれも気をつけるようにね。隙間からああいうのは入ってくる」
 そう言って、通り過ぎようとする女性の着物を譲葉は慌てて掴んだ。どうやって影を消したのかはわからないが、この人は命の恩人だ。このまま帰したら失礼に当たる。
 譲葉は落ちていた木の枝を手に取ると地面に文字を書き付けた。

 譲葉

 譲葉は自分の胸をとんとんと指で叩く。さらに文字を書く。

 家
 歓迎

 そして、ここからさらに山を登ったところに見える屋根を指した。女性は地面の文字と、家と、譲葉を交互に見ていたが、やがて我が意を得たりというように頷いた。
「わかった。あんたの名前は譲葉で、あそこに見えるのがあんたの家なんだね。もしかしてさっきのお礼をしたいってことかい? ……実は、ちょうど宿を探しに行こうとしていたところなんだ。もし良かったら一晩泊めてくれないかい?」
 不躾とも取れる申し出だったが、それでお礼ができるのなら願ったり叶ったりだった。譲葉は、父母から恩を受けた人には礼を失するなときつく言われていたのを忘れていなかった。

    *

 畑から一時間ほど登ったところに譲葉と柘榴の暮らす家がある。
 家の裏で、今日摘んだ新芽をむしろに広げていると、後ろから蘇芳が覗き込んできた。
 家までの道すがら、彼女は自分の名前と諸国を旅して回っているのだと教えてくれた。
 座敷で休んでくれればいいのに、面白そうだからと言ってさっきから譲葉の作業を見ているのだ。
「へえ、お茶ってこうやって作るんだね。これを日に干すのかい?」
 譲葉が頷くと、蘇芳は地面に敷かれた何枚ものむしろを興味深そうに眺めて歩く。
 手前が新しいもので奥が以前に干したものだ。しばらく天日に干して発酵が進むと色が変わり香りが高まる。
「譲葉ー、湯が沸いたぞー」
 家の中から柘榴の声が聞こえた。譲葉は作業の手を止めると、蘇芳の着物を引っ張った。
 湯呑みから立ち昇る湯気がふたつ。
 座敷の囲炉裏を囲むようにして蘇芳と譲葉と柘榴の三人は座っていた。
「これがかの有名な揺葉のお茶か。甘い、な。なんでただのお茶なのにこんなに甘いんだ?」
 お茶を入れると、蘇芳はいたく気に入ったようで何度もお代わりをねだった。
 譲葉は頬を緩めた。自分が育てた茶を褒められるのは嬉しいものだ。
 蘇芳にお茶の説明ができないことをもどかしく思いながらも、譲葉は囲炉裏の釜からせっせと急須に湯を汲み、お茶を注ぐ。
「いやあ、うまい」
 何度目かわからぬ「うまい」を口にして蘇芳は、お茶請けの饅頭を口に放り込んだ。
「そうだろう、そうだろう。譲葉の茶は世界一なんだ」
 蘇芳の隣であぐらをかいた柘榴がうんうんと頷いている。譲葉は赤くなった。恥ずかしいからやめてほしい。

 和やかな空気はいきなり破られた。玄関の戸口が強く叩かれたのだ。もう陽も落ちたというのにいったい誰だろう。
 柘榴が立ち上がり土間へ降りると、玄関に向かった。ほんの少し戸を引き外を覗いていたが、げんなりとした顔で振り向く。
「村長の奥さんだ」
 譲葉が柘榴の目を見て頷くと、彼はため息をついて、戸を横に引いた。恰幅の良い村長の奥方はいきなり開いた戸に驚いたようだった。
 訝しげな表情できょろきょろと左右を見回しながら中に入って来る。前に立っていた柘榴がぱっと脇に避けた。
 座敷に譲葉以外の人物がいるとは思わなかったようで、奥方は不躾なくらい蘇芳をじろじろと眺めていたが、蘇芳の方といえば気にせずお茶を飲んでいる。
 譲葉は居住まいを正すと、畳に手をついて奥方にぺこりとお辞儀をした。
「譲葉、あんたわかってるのかい? もう家賃を滞納して一ヶ月だよ。暢気にお客に茶を出している暇があるなら、茶を売りに行ってきたらどうなんだい。明日までに耳を揃えて返さなけりゃ今度こそ放っぽり出すからね」
 険のある言葉が頭上に降りかかる。譲葉はじっと畳についた手を見つめていた。
「ったく、何も言わないで薄気味の悪い子だよ。いいかい、明日までだからね!」
 それだけ言い放ち奥方は大きな身体をのっしのっしと揺らしながら開いたままの玄関をくぐって帰って行った。
「あの女、わざわざあれだけを言うためにこの山道を登ってきたのか? ご苦労なこった」
 柘榴の悪態つく声が聞こえる。
 譲葉は詰めていた息を吐いた。お客人である蘇芳に嫌なところを見せてしまった。
 上半身を起こし、詫びを入れようと蘇芳の方を向いた譲葉は目を瞠いた。
 彼女は、柘榴をまっすぐと視ていた。
 柘榴は玄関に向かってあっかんべえと舌を出していて気付いていない。
「おい、そこの。夜風は冷える。とっとと扉を閉めておくれ」
 譲葉は、ぽかんと口を開けた。いま、柘榴に話しかけた。
「ああ、悪い」
 柘榴が、謝りながら戸を閉じる。
 ……沈黙が、落ちた。
 柘榴が、がばりと振り返る。
 蘇芳の自分を見る視線に、先ほどの言葉が間違いなく自分に向けて言われたものだと理解して、ぎゃっと飛び上がった。
「お、おおお前っ、俺が視えるのか!?」
「視えるのかって……視えるに決まってるだろ。さっきからぎゃあぎゃあとやかましくてしょうがない」
「すげえ、侍ってのはみんなあんたみたいな力を持っているのか?」
 譲葉はふたりのやり取りを唖然として見つめていた。開いた口が塞がらないとはこういうことを言うのだろう。
 視えている上に、話してる。てっきり、柘榴は自分にしか視えないものだと思っていた。
「さっきも言ったと思うが私は侍じゃなくてただの旅人だ。仕える主君なんてのはない。これを見て侍だと思ったんだろうが、これはちょいとした護身用さ」
 そう言って蘇芳は、脇に置いた刀の柄をぽんと叩く。
「で。さっきのあれはなんだったんだ? えらい剣幕だったが」
 答えられない譲葉に代わって、柘榴が説明を始める。
「あの女は自分とこのボンクラ息子が譲葉に茶試で負けたから腹いせに苛めてやがるんだ。……まあ、家賃を滞納してるのは確かだけど」
「茶試?」
「国がやる茶の試験だ。茶の知識に始まり、茶をどんだけ美味しく淹れられるか、茶の味を判別する舌を持っているかとか、茶に関する色んな技能を見るんだ。三年に一回開かれて今年この村からは譲葉が選抜された。州の試験に受かれば、都で開かれる試験に進める。茶藝師にだってなれるかもしれないんだ」
「茶藝師?」
「都の茶館に勤めることができる一流の茶師のことさ」
 へえ、と蘇芳がつぶやく。
「それは楽しそうだ。試験、受かるといいね」
 譲葉は赤くなって俯いた。
 私が、茶藝師だなんて。柘榴は昔から大げさすぎるのだ。

   *

 夜が更ける。喉の渇きを覚えた蘇芳は布団から這い出ると、枕元に置いた荷物から煙管を取り出し懐に入れた。水を飲み、一服しよう。
 他の者を起こさぬように客間と座敷を繋ぐ障子を静かに開けると、座敷には蝋燭が細く灯っていた。
 僅かな明かりを頼りに背を丸めて茶を選り分けている男の姿があった。
「こんな時間まで精が出るね」
 ひっそりとその背に声をかけた。柘榴が、驚いたように振り向く。
「蘇芳さん。どうしたんだ?」
「喉が渇いちまってね。まだやってるのかい」
「譲葉はとっくに寝てるが、俺はもう少し、な。明日は月に一度、村に卸商が買い付けに来る日なんだ。明日渡せるだけの茶葉を渡せればそれなりの金になる。金を工面できなきゃ村長の奥さんにあいつがどやされちまうからよ。……あー、でもちょうどひと息つこうと思ってたところなんだ。よかったら話し相手になってくれよ」
「ああ、構わないよ。私もあんたと話をしてみたいと思っていたところだ」
「よしきた。待ってな、茶でも入れてやる。あいつほどうまくは入れられねえけどよ」
 手早く準備された柘榴の茶はなかなか美味しかった。柘榴は昼間から特に飲み食いをしている様子はない。
「蘇芳さん、本当に俺が視えるんだな。今まで俺が視えるのは譲葉だけだったんだ。あいつにしか視えないもんだと思ってた」
 柘榴がしみじみとつぶやく。
「それは、私が絲壇の人間だからだろうね」
「しだん?」
「絲について知り、研究する者たちのことだ」
「いと? 蚕の糸のことか?」
「見た目は似てるけど違う。万物の理、因果の先にあるものさね」
「なんだよそりゃあ」
「私の目は、絲壇の中でもとても良いほうでね。──あんたは、実に良くできた異境者だよ」
 柘榴は表情が凍りついた。人懐こい態度が一変し、警戒したように蘇芳を睨みつける。
「俺は、異境者じゃねえ。ちゃんと自分の意思を持ってる」
「ほう。意見するか。ますます興味深い。異境者にも色々種類はあるが、あんたはより実体に近い。物に自由に触れられるなんて規格外もいいところだ。譲葉にしか見えないのなら、彼女と強い繋がりがあるはずだね。例えば思念体のようなものなら主の意識が沈めば消えるはずだけど、切り離されても実体化しているとなるとよほど大きな触媒が……、ああ、なるほど」
 蘇芳は目を眇めて、柘榴を視た。
 蘇芳の黒曜石のように黒い瞳の中心に赤い火が灯る。火は舐めるように虹彩に広がり、彼女の瞳を瞬く間に赤く染め上げた。
 因果。理。それらを司る絲は万物に宿る。
 人間の場合、蚕の繭のように無数の絲が身体の周りを取り巻いている。絲の太さも量も色ですら生き物により異なるが、蘇芳のような専門家は一本一本の絲の意味を知り、見分けることができる。
 だが、少しでも視えるものがみればわかるくらい柘榴は異質だった。
 彼の絲は、一本だけ。
 ある部分から伸びる一本の絲が、彼の唯一だった。
「……」
 柘榴は黙したまま膝に手を置き、着物を握りしめている。蘇芳は己の目に映った事実だけを淡々と口にした。
「あの娘の声を触媒にして具現化してるのか」
 彼の絲は咽喉から伸びていた。そして、その絲の先を辿ると、譲葉の眠る隣の寝所に消えている。
「……お、俺はっ、あいつの声を喰っているわけじゃねえ」
 床に手をつき身を乗り出す柘榴に、
「わかってるよ」
 蘇芳は言った。懐から愛用の紫檀の煙管を取り出すと刻み煙草を詰めて火を点ける。肺に煙を吸い込んだ。
 しばらくして、蘇芳は「わかってる」ともう一度つぶやいた。
「あんたに他意がないことはわかっている。お前のようなモノはそういう考えのもとに現れるものでもないからね」
 蘇芳はそれ以上は何も言わず、煙管をぷかぷかと吹かしている。柘榴は観念したように口を開いた。
「親も兄弟も流行病でなくし、独りになってしまったあの娘はいつも泣いていた。来る日も来る日も泣いて、夜になり泣き疲れては眠り、陽が昇ると、がらんどうの家を見てまた泣いてんだ。俺はあの子がかわいそうでかわいそうで」
「あちこちで戦が起きてる昨今で珍しくもない。なぜ、お前は形づくられた」
「あの日はひどい雨だった。雷鳴が轟き、あちこちで山崩れも起こっていた。その日は親父さんの命日で、譲葉はひとりでここからもっと上の方に登って墓参りに行っていた。雨に濡れながらあいつはまた泣いてたよ。だけど、帰り道にあいつは足を滑らせて崖から落ちてしまったんだ。悲鳴は雨音にかき消されたが、死にたくないと願っていたのが俺に伝わった」
 そして、その時、彼女の中から声が掻き消えることになった。
「つまり、お前は譲葉の『生きたい』という強い願いから生まれたということか?」
 柘榴は頷いた。
「俺は譲葉の叫びから生まれた。心の叫びがあいつの喉を震わし、言の葉になって外に出た。俺は彼女の口から飛び出して人の形を成した。そして、あの雨の日からずっと俺は譲葉の傍にいる」
 人の想いから生まれたモノは「でも」と言葉を続けた。
「譲葉はずっと過去に囚われてる。輝かしい未来も、才能だってあるのに、この家と畑を家族の残滓のように思って動こうとしない。俺はあいつはそろそろ一歩踏み出してもいいんじゃないかと思ってるんだ。そして、もしあいつの未来を俺が阻んでるんだとしたら」
 柘榴はとうに腹を決めているようだった。
「俺は消えてもいいと思っているんだ」
 蘇芳はすっかり冷めてしまったお茶を口に含んだ。甘く芳しい香りが口内に広がる。
 お茶の良し悪しなどわからぬ蘇芳でもとても美味しいと感じる。
 才能を惜しみなく活かしきること。
 家族を失った傷を抱えて足踏みしていること。
 何が正しく、何が間違いなのか。そんな答えはどこにもない。
「その判断は私がすることでも、あんたがすることでもないさ。あの子が自分で決めなきゃならないことだ」
「ああ。俺はあいつが幸せならなんだっていいんだ。つまらない話をしちまったな。聞いてくれてありがとうよ」
 柘榴が腰を上げて、蘇芳の湯呑みを流し台に運ぶ。
 蘇芳はふぅと天井に向かって煙を吐いた。
 ──かたん。
 小さな物音を蘇芳の耳は捉えた。それは隣の寝所から聞こえていた。

    *

 翌日、譲葉は座敷で黙々と茶を選り分けていた。蘇芳はすぐに出発するのかと思いきや、旅支度をする必要があるからと言って村に買い出しに行っている。
 しかも彼女は、家を出る際に部屋の隅に積まれた茶葉の袋に気づくと肩に担ぎ上げた。
 慌てる譲葉に、彼女は村に来る卸商に預けてきてくれるとまで言ってくれた。どうせ村に行く用があるのだからそのついでだ、と言って。
 譲葉は、迷ったが、結局甘えることにした。正直、助かった。この家は村と距離があるから山道を往復するだけで時間を食う。
 蘇芳のおかげで時間に余裕ができた。夕方の分も卸せれば、家賃の用意もできるだろう。
 ……まだ出会ってわずかしか経ってないが蘇芳は、優しい人なのだと思う。
 昨晩の蘇芳と柘榴の会話が耳にこびりついて離れない。
「譲葉、あのな」
 だから、畑から戻ってきた柘榴に声をかけられた時もすぐになんの話かわかった。
 譲葉は下を向いたまま手元の茶葉だけを見つめて作業に集中する。
「譲葉!」
 譲葉はぶんぶんと首を振った。嫌だ、何も聞きたくない。
「大事な話なんだ。ちゃんと聞いてくれよ」
 柘榴の声はいつになく真剣だった。譲葉は唇を噛み、なおも首を降る。頑なな譲葉の態度に柘榴は全てを察したようだった。
 譲葉と柘榴はつながっているのだ。ある程度のことなら言葉を交わさなくてもわかってしまう。今は、それが恨めしい。
「昨日の、俺と蘇芳さんとの話聞いてたんだな。なあ、それなら俺の言いたいことわかるだろ?」
 譲葉は茶葉をつかんだ。手を振り上げて、柘榴に投げつける。はらはらと茶葉は畳の上に落ちていった。
 わからない。わかりたくない。またひとりになるなんて!

「こらこら、私は別にお前たちを無理やり引き離したり喧嘩させるためにあんな話をしたわけじゃないんだぞ」

 譲葉と柘榴の顔が同時に動いた。苦笑いを浮かべた蘇芳が玄関に立っていた。
「こうなると思ったんだ。早めに戻ってきてよかった」
 蘇芳は腰の刀を抜きながら土間を抜けると、敷台に腰掛けた。
 ちょいちょいと手招きされ譲葉は蘇芳に近づいて座る。骨ばった手が優しく頭を撫でる。
 「譲葉、わかっているだろうが、柘榴の言葉はお前を心から思ってるからこその言葉だよ。お前を愛しているからこそ、お前を案じているんだ。それにまだこの国では障害を持つものがひとりで生きていくのは難しい。女なら、なおさらだ。今後、お前の力でどこまで柘榴を形づくることができるかは私にもわからない。柘榴も自分が永遠でないことを知っている。だからこそのあの言葉だ」
 蘇芳の言葉は厳しくも優しく、譲葉の胸を衝く。
「私は、絲を断つことができる。だが、一度斬ったものを繋ぐことはできない。お前と柘榴を結ぶ絲を切れば、お前の声は戻って、柘榴は消える。それが、因果だ。でも、決断するのは柘榴じゃなくて、譲葉、あんただ。私はどっちでも構わないと思ってるよ」
 柘榴を見ると、彼はいつものように笑って頷いた。いつだって譲葉を安心させてくれる笑顔。
 けど、そう簡単に割り切れるものでもないのだ。柘榴は、家族なのだから。
「俺のことは気にするなよ。俺は、お前に声が戻って欲しい。俺は泣き声のお前しか知らないから、今度はお前の笑い声が聞きたいんだ。……今の俺の望みは、それだけだ」
 譲葉の瞳に涙が浮かぶ。そんな言い方はずるい。
「どうする?」
 誰に言われるまでもなく、このままじゃ駄目なことは譲葉にもわかっていた。譲葉は小さく顎を引いた。ほろり、と涙がこぼれ落ちた。
「そうか」
 蘇芳は譲葉の決断に頷くと、譲葉の手を取った。
「じゃあ、まずこれだ」
 小さな布袋を手のひらに乗せられる。ずっしりと重い。
「別に今すぐ別れる必要はない。柘榴に思い残しがあってはいけない。まずはしっかりと家賃を返してしまわないとね」
 口紐を開くと、中にはお金が入っていた。蘇芳が卸商からもらってきてくれたのだ。
「なんかいつもより多くないか?」
 一緒に覗き込んだ柘榴が首を傾げた。蘇芳はにやっと笑った。
「譲葉のお茶は都の茶館でもとても評判が良いそうだ。気前よくお金を積んでくれたよ。夕方の分もぜひ買いたい、と」
 一瞬、何を言われたかわからなかった。その言葉の意味を理解して先に我に返ったのは柘榴の方で、手を突き上げて歓声をあげる。
(私のお茶が……都の茶館で?)
 ほれ見たことかやっぱり譲葉の茶は世界一だ、と柘榴が譲葉の背中をばんばんと叩く。
 譲葉は、震える手を握りしめた。じわじわと心に広がる何か。どうしよう、たまらなく嬉しい。

 それからは夕方のぎりぎりまで三人で茶を選り分け袋に詰めた。
 蘇芳とふたりで袋を籠に詰めて背負い、両手にも持てるだけの袋を抱えて村に行き、卸商に引き渡した。
 卸商の男はたいそう喜び、午前の倍のお金を払ってくれた。
 次に、譲葉と蘇芳はその足で村長の家に行き、先月と今月の二ヶ月分の家賃を払った。
 奥方はまさか本当に持ってくると思わなかったのか目を白黒させていたが、文句を言えるはずもなく苦虫を潰したような顔で二ヶ月分の家賃を受け取ると、ぴしゃりと戸を閉めた。
 村の中を歩きながら、譲葉は不思議な気分を味わっていた。
 自分の中で何かが動き始めた気がしたのだ。しこりのように重くのしかかっていた何かがほんの少しだけ動いた気がする。
 前を歩く蘇芳が振り向いた。
「なあ、譲葉。お金まだあるんだろう? そのお金でもち米と小豆を買って帰ろうじゃないか」
 もち米と、小豆?
 蘇芳がぱちんと片目をつむってみせた。
「赤飯を炊くのさ。あんたと柘榴の門出を祝ってね」

    *

 夕飯に蘇芳の宣言通り赤飯を炊いた。味噌汁をつくり、魚も焼いた。豪華な食事を楽しみながら、三人でたくさんの話をして、たくさん笑った。
  蘇芳は急かすようなことはしない。彼女は待ってくれているのだ。
 だが、時間をかければかけるほど別れは辛くなる。譲葉も柘榴もよくわかっていた。
 夜の帳が落ちるに連れて、譲葉の心の準備は整っていった。

 いま、譲葉と柘榴は座敷で向かい合って座っていた。
 蘇芳が譲葉の両の瞳に手を翳して何やらつぶやいていたかと思うと「よし」と頷いて手を外した。
 お互いが最後まで視えるように配慮をしてくれるらしい。
 譲葉の目に、自分と柘榴を結ぶ白く輝く一本の絲が映った、
(これが、私と柘榴を結ぶ絲)
 蘇芳が、刀の鯉口を切り、鞘を払う。彼女は、絲の真ん中で刀を構えた。
「ふたりとも覚悟はいいかい」
 譲葉も柘榴も頷く。
 
 蘇芳が刀を振りかぶる。白刃が振り下ろされ、張り詰めていた絲がたわんでぷつりと切れた。
 譲葉は息を飲んで、柘榴を見つめた。
 柘榴の姿がどんどん薄くなっていく。
 本当に消えてしまうのだ。涙が溢れて、視界が滲む。
「譲葉、今までありがとうな」
 それは譲葉が言うべき言葉だ。柘榴がいなかったら生きてこれなかった。
 柘榴がいたから生きることができたのだ。
「俺が消えても、俺はずっとお前と一緒にいる。それを忘れないでくれ」
 誰が、忘れるものか。
 ああ、もうほとんど柘榴の姿が見えなくなってきた。

「──ろ」

 譲葉の唇から小さな声が漏れた。柘榴が目を瞠る。
「ざくろ だいすき」
 譲葉は泣きながら懸命に口角を持ち上げた。笑うと、約束したのだ。笑って、見送ると。
 その声に、言葉に、柘榴は満足げに笑い──消えた。

      *

 翌日、一日中寝所に籠って泣き続けた譲葉だったが、翌々日の朝、吹っ切れたように活動をし始めた。
 ずっと側についてくれた蘇芳に礼を言い、村の出口まで蘇芳を見送りに出た。
 その日は、抜けるような青空だった。
「なんだか少し大人びたね」
 蘇芳の言葉に譲葉は照れたように笑った。
「ありがとうございます」
 凛とした声。
「私、今ならわかります。柘榴は、私でした。私の言いたいこと、心の奥底にあったものを私の代わりに全部口に出してくれていたんです。柘榴は私で、私が柘榴で、今も彼は私の中に確かにいるんです。蘇芳さん、私、頑張ります。今までずっと一緒にいてくれた柘榴のためにも、国一番の茶藝師になってみせます」
「きっと、柘榴も喜ぶ。茶藝師になったら、ぜひまた私にお茶をご馳走しておくれ」
「はい!」
 譲葉は、力強く頷いた。

いつも読んでいただきありがとうございます。 小説は娯楽です。日々の忙しさの隙間を埋める娯楽を書いていけたらと思います。応援いただけたら本を買い、次作の糧にします。