熱力学の教科書と私のノートの位置づけ【熱力学のさまざまな流儀】

前回の記事で,エントロピー増大則を導くという,ひとつの大きな目標を達成したので,ここで一旦,熱力学の参考文献について書いてみたいと思います.(熱力学の記事の投稿がこれで終わりというわけではなく,これからも続く予定です.)

教科書を比較すると,熱力学の理論の構築の仕方には実に様々なものがあるのだなと思わされます.エントロピーをどうやって導入するか,というところが熱力学のミソですが,そこに時代背景や個性が現れます.しかも,一見すると同じ学問を表しているとは思えないくらい,色々な考え方があるように見えます.これはなぜかというと,要請の置き方が教科書によって異なっていて,その結果エントロピーの位置づけが異なるように見えるからです.もちろん,何を前提として何を導くかの順番が違うだけで,同じ内容なのですが,それを理解するのが熱力学のハードルだと思います.

ここでは,私がノートを書くうえで参照した教科書のそれぞれの流儀について説明します.どれもおすすめの教科書ですが,それらの位置づけを理解しておくことは,これから熱力学を学ぶ人にとって助けになるのではないかと思います.(ただし,全てをくまなく読んで理解しているわけではもちろんありません.)

そして,これらを比較することによって,私がこれまでの一連のノートでとった流儀を明らかにするのが本当の狙いです.

ただし,熱力学第一法則(エネルギー保存則)は共通して要請されるものとして,説明を省略します.実際は,人類が熱力学第一法則に気が付くのにはかなり長い歴史を要しているので,これを重視する教科書も多いのですが.

また,これまでに連載したノート内で定義していない物理用語も少し出てきてしまいますので,未定義の言葉はこのノートの最後にまとめて注釈としておきました.


Ⅰ 伝統的な熱力学

温度はまず測定できる量として認めます.熱力学第二法則をケルビンの原理やクラウジウスの原理の形で要請して,カルノーサイクルの考察から絶対温度を定義するに至ります.そしてクラウジウスが1865年の論文で行ったやり方にならって,準静的過程において系が吸収するに基づいてエントロピーを定義します.このやり方が最も歴史に沿ったエントロピーの導入方法です.

この流儀での主な要請
温度の存在
クラウジウスの原理,またはケルビンの原理

エントロピーの導入
・準静的過程で,様々な温度の環境から系が吸収する熱を用いて定義できる,状態の関数

クラウジウスの原理やケルビンの原理は,数式ではなく文章の形なので,私はなかなかしっくりときませんでしたが,数式をいじるのが物理ではないということをよく教えてくれました.これらの原理を用いてカルノーサイクルを考えているうちに,いつの間にかエントロピーが状態の関数として定義できるようになっていて不思議な気持ちになったのを覚えています.自由エネルギーはエントロピーを用いて定義され,その後色々な偏微分の関係式が出てきて圧倒され,私は熱力学というのは複雑な理論体系だと思っていました.

(1)E. Fermi,Thermodynamics(Dover Publications,1956)

この本は私が熱力学を学んだ最初の本でした.日本語版(フェルミ熱力学)もありますが,なんとなく英語で読んでみました.英語が苦手な私でも読める英語で書かれているのでおすすめです.

易しい言葉とシンプルな数式で書かれていて,正確さには少しだけ欠けるのかもしれませんが,論理の飛躍はないし,話の展開も追いやすいと思います.それでも私には,この伝統的な流儀は直観に乏しく,なかなかピンと来ませんでした.こうしてエントロピーを見出した昔の人たちは圧倒的にすごいと思います.

(2)P. Atkins,アトキンス物理化学(東京化学同人,1979)

化学の教科書なので,より使える熱力学という感じで,直感的に理解しやすかったです.それでも,熱力学の理論構造はやはり複雑に感じられ,なんだかよくわからないけど問題はなんとか解けるなあという状態でした.

化学ではギブズの自由エネルギーのほうが便利なので,この教科書では大活躍します.このノートでもいずれ扱いたい話題です.

(3)豊田利幸,碓井恒丸,湯川秀樹, 現代物理学の基礎2 古典物理学Ⅱ(岩波書店,1978)

古典物理全体にわたる話題を扱っていて,そのなかに熱力学も含まれています.非常にコンパクトにまとまっているにもかかわらず厳密な構成で,たとえば温度の存在は熱力学第0法則からきちんと示されますし,エントロピーの導入の仕方も,カルノーサイクルの考察を経由する方法だけでなく,数学的な方法も併せて記述されており明快です.とても深い示唆を私に与えてくれました.相対論的な熱力学や微小系の熱力学の話題も扱っています.

(4) 久保亮五,大学演習 熱学・統計力学(裳華房,1961)

いろんな問題が載っています.この流儀の熱力学の辞書のような感覚で持っています.

Ⅱ 操作的な熱力学

操作の可能性の考察に基づいて熱力学を構築します.熱力学的な操作に限界があることを,等温操作についてのケルビンの原理か,断熱操作についてのカラテオドリの原理として要請します.温度についてはいろいろな導入方法があると思います.エントロピーの導入の仕方に特徴があって,断熱操作の考察に基づき,断熱操作によってある状態に到達できるかどうかの指標がエントロピーであることを示します.

この流儀での主な要請
ケルビンの原理,またはカラテオドリの原理

エントロピーの導入
・断熱操作の可能性を表す普遍的な量

(1) E. H. Lieb and J. Yngvason, The physics and mathematics of the second law of thermodynamics, Physics Reports 310, 1-96 (1999)

この論文では,断熱操作で行ける状態と行けない状態とを区別し,それらの関係が満たすべき性質を要請することによって,エントロピーを一意に決定します.数学的に厳密で,必要十分条件としてエントロピーが一意に導かれるので,エントロピーの本質を表していそうです.熱や温度といったよくわからない概念を用いずに,仕事の概念だけで定式化されています.温度はエントロピーのエネルギーでの微分によって導かれます.

(2) 佐々真一,熱力学入門(共立出版,2000)

こちらも操作の可能性に関する考察を前面に押し出しています.温度に関しては測定できる量として認めます.系を組み合わせると,単体では不可能な断熱操作でも補償できることから,その補償するものを決定することによってエントロピーを導入します.熱力学入門というタイトルと,本の薄さから想像するほど易しい本ではなく,かなり深い考察がされていると思います.

(3)田崎晴明, 熱力学 現代的な視点から(培風館,2000)

温度は環境を特徴づける量として認めます.等温操作と断熱操作でのそれぞれの仕事を主役にすることによって,熱という曖昧な言葉を用いずに自由エネルギーとエネルギーをそれぞれ定義することに成功しています.カルノーサイクルの考察から得られるカルノーの定理により,エネルギーと自由エネルギーの差を温度で割ったものに普遍的な意味があることを見出し,それをエントロピーと定義します.自然に話が流れていき,わかりやすいと思います.

Ⅲ エントロピーありきの熱力学

すべてが明らかとなった現代の立場からすると,エントロピーの存在を初めに認めることもできます.そしてエントロピーの解析的性質とエントロピー最大の原理を要請することによって,演繹的に全てを導きます.温度はエントロピーのエネルギーでの微分によって導かれます.理論構造は非常にすっきりしていてわかりやすいのが特徴です.

この流儀での主な要請
エントロピーという,状態の関数の存在
・エントロピーの連続微分可能性など
エントロピー最大の原理(新しい平衡状態はエントロピーが最大の状態である)

エントロピーの導入
・あるものはある.平衡状態をうまく記述してくれる熱力学ポテンシャル.

伝統的な流儀では,温度の存在を認めることから始まりますが,その代わりにエントロピーという関数の存在を認めるわけです.論理的には何の問題もありません.でも,エントロピーというのは温度と違って直接測れる量ではないので,エントロピーの関数形を知るためには,熱容量などの測れる物理量を通して逆算しなければなりません.なので理論的にはすっきりしているものの,物理的にはどうもピンと来ない部分があるように思います.また,天下り的にエントロピーが与えられる結果,必然として物理現象が導かれるので,思考停止を招きあまり考えることがなくなってしまうというデメリットがあるように感じます.

(1)清水明,熱力学の基礎(東京大学出版会,2007)

私はこの本を読んではじめて,熱力学が美しく整理されている理論体系であることがよくわかり,とても感動しました.エントロピーを認めるだけで,迷いなく,するすると話が進むことが実感できます.(ただ,力学的な量と熱力学的な量との結びつきが自明でないように私には思えます.それらを結びつけるための仮定が必要な気がしているのですが,気のせいでしょうか…?たとえば,「理想仕事源のエントロピーは変化しない」のような要請が必要ではないかという感じがしています.だれか教えてください.)

私のノートについて

私のノートはⅡの流儀とⅢの流儀のあいだに位置づけられます.それらの良いところをうまく取り入れることでわかりやすくなるんじゃないかと考えました.私のノートでは,温度は環境と着目系とで等しくなる量として熱力学第0法則から導入し,操作的な仕事に基づいて自由エネルギーを定義することから出発しました.この部分は田崎さんの本にならっています.その後,自由エネルギーについての要請として,示量性・自由エネルギー極小の原理と,解析的性質を入れていきました.この要請の仕方は清水さんの本の要請の自由エネルギーバージョンになっています.すると,エントロピーは自由エネルギーの温度依存性の考察から得られました.

私のノートでの要請のまとめ
温度の存在
自由エネルギーの定義の存在
・自由エネルギーの示量性自由エネルギー極小の原理
・自由エネルギーの温度に関する解析的性質(連続,片側微分可能)
温度の下限の存在

私のノートでのエントロピーの導入
自由エネルギーの温度での微分係数に負号を付けたもの
エントロピー生成は自由エネルギー散逸に関連する,普遍的な不可逆性の尺度

自由エネルギーは操作的に定義されているので力学とのつながりも明確です.一方,操作的な概念は自由エネルギーの定義で尽きていて,カルノーサイクルのような操作的な思考を経ずに,エントロピーを不可逆性の尺度として特徴づけることができました.このエントロピーの数学的な導出方法は,豊田・碓井・湯川の本でされている導出をおおいに参考にしましたが,私のノートでは熱の概念を導入していないところと,ケルビンの原理もカラテオドリの原理も要請していないところに特徴があります.このような教科書を私は知らないので,既存の理論の組み換えではありますが,それなりにオリジナリティがあると思っていますし,物理的にもわかりやすいと思っています.

熱力学は平衡状態の状態空間上の各「点」での性質を記述する学問だと私は思いたい.それで,力学の構造を入れながらも,操作に関する考察を最小限にしつつエントロピーを導入できるこのやり方を考え,気に入っています.操作は点と点をつなぐ「線」として自然に理解できます.

それでも,もっと良い理論の構築方法や,個人の好みに合ったやり方があるのでしょう.熱力学は,理論の構築をいろいろ考えられるのが難しいけれど面白いところだと思いますし,物理をじっくり考えるのに良い題材だと思います

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未定義の用語に対する注釈
「エネルギー移動の形態のうち,仕事としてカウントできないもの」
等温操作「温度一定の環境の下での系の操作」
断熱操作「外部変数の変化だけで系の変化が記述できるような系の操作」
クラウジウス(Clausius)の原理「熱は低温から高温には移動しないという法則」
ケルビン(Kelvin)の原理「一つの環境から熱を得て,それに相当する量の仕事に変換するようなサイクルは存在しないという法則」
カラテオドリ(Carathéodory)の原理「断熱操作によって到達できない状態が,すぐ近くに存在するという法則」
(これら三つの原理は実はどれも熱力学第二法則と等価なことを言っていることが示せます.)
サイクル「初めの状態と終わりの状態で着目系が同じ状態になるような操作」
カルノー(Carnot)サイクル「準静的な等温操作と準静的な断熱操作を組み合わせ,高温環境と低温環境とでやり取りする熱の差を利用して仕事を生み出すことのできるサイクル」
ギブズ(Gibbs)の自由エネルギー「温度と圧力とその他の外部変数によって状態を指定したときの熱力学ポテンシャル」

クオリティの高いノートをたくさん書けるように頑張ります!