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アイドリッシュセブンに夢を見た――Op.7を終えて、無邪気な夢を思い出す

あなたは、覚えているだろうか。初めて好きという感情を覚えた日のことを。
おぼろげながら覚えているのは、くすぐったくて、恥ずかしくて、誰にも教えたくないような自分だけの秘密だった。
好きな子に好きだといいたいけど、いえない。だけど誰かに知ってほしいみたいな、そんな甘酸っぱい思い出だ。

あれから数十年が経って、周りには好きなものが増えた。
大人になるにつれ、好きなものは増えていったけど、同時に、世間からみたその「好き」が受け入れがたいことであることも増えていった。
好きにグラデーションがあることもしった。人生における比重とか、優先度とか、社会的な対面とかまあその他もろもろしがらみエトセトラ。

1/22・23の二日間行われたIDOLiSH7 『Op.7』を通して思うことはたくさんあるけれど、ただ一つ確信しているのは、自分にとってアイドリッシュセブンはおそらく、「好き」というシンプルな感情でものを語ることができる数少ないものなんだろう、ということだ。

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お久しぶりの方もはじめましての方もこんにちは。やまろくです。
本当は熱量のままにすぐnoteを書ければよかったのだが、感染のあれこれもあって、ようやく自分の中でOp7が「無事終わった」という思いになったのが先週であった。

アーカイブ同時視聴もあったので、それまで、まだなんとなくあの夢をみているような気持ちになっていた。感染潜伏期間の2週間が過ぎてようやく、ちょっとずつ地に足が着く感覚がでてきた人も多いのではないだろうか。(というか自分がそう)

3週間前に行われたIDOLiSH7 『Op.7』について、この記事をお読みになっている方で、見ていない方は少ないと思うが一応。


アプリゲーム「アイドリッシュセブン」は2015年にリリースされた音ゲーである。いまでこそアプリゲームという媒体は、女性向け二次元コンテンツの一大市場となっている。

思うに、この2015年というのはこのソシャゲジャンルというものの黎明期であったのではなかろうかとおもう。

新しいゲームが生まれては消えていくソシャゲ戦国時代で、2015年リリースのタイトルは早々たるものばかりだ。その中に、アイドリッシュセブンが入っていて、しかも2022年現在の今、生き残っていることは、とんでもなく幸運な話である。

アイドリッシュセブンと共に駆け抜けてきた足掛け7年。7年という歳月は決して短くない。生まれた子供が小学生になるくらいの時間だ。
かくいう自分も、立派に(?)7年間年を重ねてきている。立派に中年の仲間入りを果たした。

そうして、アイドリッシュ「セブン」の節目の7周年となった2022年1月。
タイトルにも評されているアイドルグループ「IDOLiSH7」は初の単独公演を行った。
感想としてはtwitterでさんざん言っていたので割愛するが(端的に言えば一織君、すごく綺麗だった……というお話に収束してしまうので)( そのあとの和泉一織おぢさんっぷりがえぐいので) 、ほんとうにいろんな意味で「開催されてよかった」という思いしかない。

そんなわけで、『ナナライ』後、恒例のnoteをだらだらと書きたいと思う。いつもの通り、公演の感想・レポというよりは、それを経て自分が感じたことを中心にまとめているということをご承知いただきたい。

当然、一個人のお気持ちである。そういう捉え方もできるよね、という受け取りをしていただければありがたい。

前置きが長くなったのでそろそろ本題へ。
読んでくれた皆さんとアイドリッシュセブンが好きだなあという気持ちを共有できたらとってもうれしい。


前回よりも更に「アップデートされた夢」

 
2021年、未曽有の感染症の中でアイドリッシュセブンプロジェクトはプロジェクト内でも初となるTRIGGERの初単独公演を無観客で行った。

2019年の「REUINION」から約2年ぶりのライブだ。しかも、TRIGGERの単独。無観客は本当に運営側としても苦渋の決断だったことだろう。
アイドリッシュセブンのライブというのは、2018年に行われた

「RoadToInfinity」からずっとユーザーの想像を越えてきてくれている。当然、TRIGGERの単独公演もその想像なんか簡単に超えてきてくれた。徹頭徹尾、あれはTRIGGERのライブだったのだ。アプリゲーム「アイドリッシュセブン」のなかで語られるダイヤモンドのような輝きを放つ彼らが、真っ暗な闇の中でぽつんと佇んでいた。自宅のPCの前でボロボロ泣きながらペンライトを振っていたのを、昨日のことのように思い出す。

そういった流れの中で発表されたのが「IDOLiSH7」初単独ライブの「Op.7」であった。

想像なんか遥か彼方にいってしまった。
あそこに立っていたのは「IDOLiSH7」だった。告知コーナーでアプリゲーのお知らせもなければ、アニメの予告もない。新曲がアイドリッシュセブンの主題歌になりますよというそんなアイドルの仕事としての告知がなんだか感慨深かった。

ああ、自分はいま、IDOLiSH7 の単独ライブにきているんだ、と四方八方から突きつけられていたのだ。
回を重ねるごとに、キャストの皆様がキャラクターへ寄せていくクオリティが上がっている。演出も本編を想起させるものではなく(セリフとかの演出もなかった)、アイドルがライブをする前提で作られたもの。本当にライブとしての満足感がめちゃくちゃ高かった。

正直言って、RTI・REUINIONを越えていた。求めていた「アイドル」としてのライブを堪能したという気持ちがとてつもなく強かった。

二次元、もっと言えば作られたキャラクターというのはどうあってもこちら側――三次元——へ出てくることはできない。
二次元アイドルであるアイドリッシュセブンもその例に漏れない。基本的彼らに血は通っていないし、人生もシナリオでしかないのだ。
だけど、彼らは生きている。現実ではないけれど息をして、悩んで、怒って、笑っている。そういう風にアイドルとして呼吸をしている。
じゃあ、キャラクターと我々をうまく交差させるにはどうすればいいのか。
その答えの一つがライブにあるのだと思う。

言い方が非常に乱暴になってしまうが、キャストという依り代をベースとして、アイドリッシュセブンのアイドル達を感じてもらう空間を提供する。演出や衣装でキャラクターを再現する。そして、観客である我々がキャラクターを認識することでこの夢と現が交わる不思議な空間が生まれる。
どの要素が欠けても『アイドリッシュセブン』は成立しなかった。特に有観客となった『Op.7』は観客である我々が、自分以外にもファンがいたということを認識するいい機会だったのだろう。あの会場のペンライト一本一本を命ある現実の人間が振っている事実は、思った以上に認識を強める要素だった。


特に単独公演ともなればそれは顕著だ。周りのどこを見渡しても、IDOLiSH7のファンしかいない。たくさんのグループが集合するライブでももちろん同じことを想うけど、7人だけ、という空間はやっぱりちょっといつものナナライとは違う光景だった。本当に7人だけの、IDOLiSH7のライブなんだと実感させられざるを得ないほどに。

キャストが見せる夢

少し話は、ずれてしまうのだけど、本当に回数を重ねるたびにキャラクターのキャストさんたちには頭が上がらなくなっていく。


(門外漢からの意見ではあるが)声優のお仕事というのは「声の演技」だけれど、年々この枠が広がっていっているのは言うに及ばずだろう。
さまざまな時代の変化と共に、ライブをしたり、アイドルのようなことを求められたり、バラエティ番組に出たり、本当にマルチな才能が求められる職種になっていっている印象がある。


なにかのインタビューで声優は「専門職」だと仰った方がいらっしゃった。専門、というのは時代の流れと共にその専門性は変化することでもある。
国家資格があるような専門職では日々時代と専門性のすり合わせが行われている。


expertという意味では、確かに声優という仕事は専門職だろう。研鑽された熟練の技能は職人技と言っても過言ではない。
「中の人」と呼ばれていて、声での演技がその技能であった数十年前から比べると、昨今は、声優が舞台上に出ることが非常に増えた。アイドリッシュセブンなどの二次元アイドルジャンルが一番わかりやすい例だろう。
また、まだ新人の声優を起用することで、「キャラクターと声優の成長」を見守るコンテンツも少なくない。

そういったところから、声優はある意味ではアイドルとしての格を手に入れた部分があるともいえる。限定的な技能の発揮というよりは、その成長、生き様さえもコンテンツとなっていく時代だ。
かつては完成された「声のお仕事」として専門技能として発揮されていた技術だけではなく、声優一人一人の価値、個々人がどんな価値を生み出せるのかというお話になっている。

アイドリッシュセブンの話に戻ると、この、現代の声優の専門性が絶妙な形で発揮されていたのだと思う。


キャストの一人一人が高めたキャラクターに対する深度は、アイドリッシュセブンのキャラクターとの相性が良すぎた。
もともとしっかりとキャラクター、人間として描かれていた作品であること、現代のアイドル、エンタメ業界という声優にもなじみの深い世界観であることが相まって、没入度が本当に高くなっていく。
キャストを通して、キャラクターの息遣いが聞こえる。”依り代”であるキャスト陣のこれまでの経歴と、IDOLiSH7 のキャラクターが重なって、二次元にものすごい奥行きができていくのだ。


更に思うに、IDOLiSH7というグループだからこそという要素も大いにあるのかもしれない。
昨年末公開されたメインストーリー5部で、「裏側を見せること」を時代が求めているという描写があった。それは言葉を変えれば、努力の姿やこれまでの経過がよりライブという空間に深みを持たせているということでもある。

Op7でここまで自分という人間が胸を突きさされるような思いをしているのは、
キャラクター自身の人間性×キャスト個人の特性×時代が求める偶像×何もかもが制限された時世
みたいな掛け算が自分の中で行われていたからなんだろう。

『アイドリッシュセブンは現実』が消えていく 

Op.7を終えて感想をいくつか見た中で、ぼんやり思っていたことが一つある。


それはかつてなにかすごいことのように言われていた「アイドリッシュセブンは現実」の文句をほとんど見なかったということだ。


もちろんそれを言っている方もいたとはおもう。自分の目に触れなかっただけなのかもわからないけど、だけど相対的に見てRTIの頃よりも「現実だった」という言葉は減っているような印象を受けた。noteやブログを見てもそこにあったのはIDOLiSH7があたかもリアルアイドルであるかのような記載だ。

当然、声優がやっている二次元アイドルライブだという認識はあるのだと思う。
けれど、それをさしおいても、あのライブをみた人たちがIDOLiSH7としてキャストを認識していたという事実があまりにもすごい話だなと思った。
「現実だった」ではなく「IDOLiSH7がそこにいた」でもない。

一織くんがちょっと照れたように笑うところとか、
大和くんがリーダーとしてどんとかまえているところとか、
三月くんが現地のファンに率先してファンサするところだとか、
環くんが言葉よりも先に身体が動くことだとか、
壮五くんが誇らしげに歌を歌うことだとか、
ナギくんが立ち姿の一つ一つに気品があることだとか、
陸くんが天真爛漫に歌ってくれることだとか、

それらをみたあとに出てくる感想は、「IDOLiSH7ってすごく元気になれるグループだった!」という感想で、そこにリアルがどうとか現実だったとかそういう感情があまり介在しない。
RTIやREUNIONで感じたのは前述したような二次元アイドル達を現実に寄せてくる手法の巧みさだった。


けれど今回感じた衝撃は全く違う。もちろん、その手法がベースにあるということを念頭においても、どうあっても終わった直後の感想は、「IDOLiSH7のライブって楽しい」というものだけ。
実在性とか二次元とか三次元とか、そういうのを取り除いて、アイドルのコンサートに行った後の純粋な感情しか残らない。

それこそがアイドリッシュセブンプロジェクトの掲げていた「What’s NON FICTION?」であり、「CROSSING×US」であり、「BEGINIG NEXT」であり、そして「We're IDOL、We're ARTIST」の一つの形ではないか。

2018年のRTIの直後に打ち出された「What’s NON FICTION?」で二次元と三次元の揺らぎを思わせ、「CROSSING×US」で次元の交錯する様を見せてきた。そうして迎えた5周年の「BEGINIG NEXT」は今思えば交差した世界をベースにした新章の幕開けだったんだろう。

そして2021年。6周年を迎えたアイドリッシュセブンは「We're IDOL、We're ARTIST」を謳った。
本当にその言葉に尽きる。
あのさいたまスーパーアリーナに立っていた7人は、非常に純度の高いアイドルでありアーティストだった。
二次元とか三次元とかそんな余計なことを考える隙間もなく、ただただ楽しいと嬉しいと幸福に満ち足りた空間がそこにはあって、終わった後に「明日もまたいいことがありますように!」と願えるような夢だったのだ。

Op.7は「アイドリッシュセブンは現実!」が自分の中から消えた瞬間だった。
ただの好きなコンテンツから、明日を生きる活力になれるコンテンツにアイドリッシュセブンがなったあの時の高揚感に、自分がちょっと動揺したくらい。


無邪気な夢を思い出して、新しい僕らへ変わっていく

…と、いろいろと取り留めのないことを書いてきたけれど、本当にOp.7は素晴らしいライブであった。
冒頭でも書いたけど、無事開催していただいたことが本当に感謝しかない。

当然自分もこの現代社会に生きている以上、開催前は、感染対策とか現実的な心配はたくさんあった。
実際に現場で行われていた感染対策はやっぱり「できるうる最善」であったんだろう。これについては議論の余地がたくさんあるとおもう。
その議論は本筋ではないので避けるけど、そういった対策も含めてエンタメ業界はいろいろな過渡期にきているのだろうなと素人ながら思う。専門性の変化ということでも書いたけれど、やはり時代の流れというもので変わらなければいけない形はたくさんあるんだろう。

ソシャゲはソーシャルを冠するコンテンツだ。
生き残るために時代と社会の変化を読むと事はとても「ソーシャル」だな、とおもって変な感心をするけれど、その根底にあるものは崩れてほしくないと思う。
やっぱり自分も二次元のオタクだから、キャラクターたちに縋っているところはあるのだ。
自分の好きなコンテンツに勝手に救われて、勝手に傷つけられて、それでも心の支えにして日々変動する社会の中を生きている
何かを元気づけたいとか、コンテンツに触れた人たちが幸せになってくれますように、なんて今どききれいごとかもしれないけど、いちファンとしてはそういう姿勢が何よりも幸せだったりする。


Op.7の二日間、時間にしてみれば5時間という時間で、夢をみていた。夢を思い出した。
何かが好きだということは、自分だけの内緒の味方ができたみたいで、ちょっとだけ誇らしい気持ちになったこと。好きの気持ちがあると、頑張れることがあること。
Op.7は、私にそんなオタクとしての原初の感情を呼び起こさせてくれた。

見出しにもタイトルにも書いたけど、アプリゲームの新曲、「マロウブルー」がとても好きだ。
ライブで披露はされなかったし、まだ音源化されていないけれど、郷愁の覚えるちょっとアップテンポなメロディー、出会いと別れが繰り返されることへの揺らぎが「マロウブルー」という些細な刺激で変化する紅茶にかけ合わせて胸を揺さぶってくる。


アイドリッシュセブンは7周年に向けてここから更に加速する。
変わったものもあれば、変わらないものもあって、きっと出会って別れた人もいるのだと思うし、きっといろんな葛藤を自分も抱えるのだろうし、終わらない夢を見せてくれと願うんだろうけど、夢は覚めるから幸せなのだとも思う。
なら何度も夢をみていればいい。覚めない夢じゃなくていい。我々は現実に生きる人間なので、夢の世界ではちょっとだけ苦しくて生きられないのだ。
目覚めときに見た夢が幸せであればいいと思いながら、今日も現実を生きている。
だから、できれば、その幸せな夢を連れてきてくれるのがIDOLiSH7であってほしい。
同時に、根拠のない「いいこと」を願うきっかけに、アイドリッシュセブンがあってほしいという勝手な夢もみているのだ。

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