アイドリッシュセブンってアイドルだったんだと気付いた


(超絶今更ながら昨年のラビチューブの感想が出てきたのでリサイクルがてら載せさせてください。以下、昨年の下書きで放置していたものです)


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2020年が明けた。相変わらず仕事の休みは取れないが、アイドリッシュセブンのマネージャー業もおろそかにはできない。兼業はなかなかつらいものだ。今日は久々に時間が取れたのでnoteに独り言でも書こうと思う。

…などとnoteにあるあるなクリエイター書き出しをしてみたところで、あるが今回も言わせていただきたい。アプリゲーム『アイドリッシュセブン』の今年の誕生日企画についてである。


「今年はRabbiTubeクリエイター!!!!」(現実に寄せて言えばyoutuber、Vtuberだろうか)

いよいよここまで来たか、というきもちでいっぱいである。

推しが動いてる…生きてる…と尊さを感じて今後の誕生日企画に向けて恐れおののく皆様も多いことだろう。かくいうわたしも推しの誕生日まであと2週間となった。発狂させる気か(誉め言葉)

普段あまりyoutuberなどみないので、この動画の出来がどうかということはわからないが、ただ一つ言えるとしたら、この誕生日企画動画を見てしみじみ思ったことは、「彼らはやっぱりアイドルだったんだな」という感慨である。

アイドリッシュセブンは”アイドル”である

何をいまさら当たり前のことを、と思ってしまうのだが、よくよく考えてほしい。
私たちが普段触れているアイドルというものはどういったものだろうか?

こういうのではないか
(わかりやすくジャニーズを引っ張ってきたが、他のアイドルさんでもいい)

これらを見たときに、シンプルにああアイドルだなあと思う要素はたくさんあると思うが、たとえばものすごいファンだとしても、彼らの心中やすべてを知るということはどこまでできるのだろうか、ということを考える。
難しい。本当の裏側の話は裏方にならなければわからないし、そもそもアイドルはキラキラ輝いてくれればいい、笑っていてほしいというそういうファンだっている。
三次元であれば、その人たちに触れることはまず難しい。ファンとアイドル、基本的にはその立ち位置が確立されている。直接的な知り合いにならない限り、覗き込もうとしない限り、彼らの本当の素顔は知ることはできない。それでいいし、それがいいという人だって多い。

しかし二次元では「アイドルコンテンツ」「アイドル」というファンとしての立ち位置にありながら、マネージャーやプロデューサーや作曲家など、彼らの本来の人となりを知る位置づけにユーザーがいることになる。

アイドリッシュセブンのシステムに「ラビチャ」というものがある。マネージャーとしてチャットアプリ(LINE的なもの)でアイドル本人と会話をするシステムだ。そこでは「こんなお仕事したことがあって」「こんなオファーがあって」とは触れられてはいるものの、どんな仕事だったのか、という成果物は特に見られないことが多い。
アイドルの素顔と話していて、彼らの人間性をわたしは知った気でいた。こんなキャラクターなのか~としみじみしながら、彼らの抱える葛藤を間近で見てきた。
けれど、わたしはアイドリッシュセブンのマネージャーでありながら、彼らがアイドルであることを忘れてしまっていた。
「いや何言ってるの??」と言われれば当たり前なのだが、ほんっとうにお恥ずかしいことにわたしはアプリをやって3年目くらいまで、彼らがアイドルであることをすっかり頭から消してしまっていたようだ。

それを実感したのが、前回の誕生日企画である「TwelveHits!!」である。

アイドルが月ごとにラジオをやるという体のドラマCDであるが、これを聞いて「この人たち正真正銘のアイドルだった…」と今更ながらに実感した。
普段のストーリー内との話口調からも全く違う。知っているけど、知っていない彼らの姿を聞いて、私の中には衝撃が走った。そうだアイドリッシュセブンのメイン登場人物はみんなアイドルだった。どうしてそんな当たり前のことをわすれていたんだ…

二次元コンテンツであるという盲点

二次元コンテンツであるというところで、「すべてがフィクション」という意識は共通してあるところだろう。作り物、作り話である。どんなに練り込まれたものであっても、それが現実ではないという一点で「お話」として楽しみたい気持ちがある。
だからこそ、二次元アイドルとどれだけ言っても、キャラクターの域を抜け出ない人も多いことと思う。

物語の中で語られていることは確かに彼らの素顔ではあるが、残念ながらアイドリッシュセブンのすべては物語の中では完結していない。OFF旅のように彼らが「仕事」として受注している姿こそが、世間に映っているアイドリッシュセブンのアイドルとしての顔なのである。

わかりやすく言おう。
今、『アイドリッシュセブン』は、より「アイドル」として彼らを現実に押し出すために、「アプリ」と「それ以外」をはっきりと区別化している。

『アイドリッシュセブン』というアプリを売り出すためではなく、『アイドリッシュセブン』というプロジェクト自体を作り上げる一環としてアプリが位置付けられている、という印象。それが最近のアイドリッシュセブンを見ていると強い。

コラボに関することも含むが、アプリ以外でのグッズ展開や動画では、ほとんどといっていいほど彼らの素顔に触れられるものはない。「顔のいい子たちがわちゃわちゃやってんのがいいよね!」という原作の言葉通り、かっこいいMVとそのギャップを生み出すような動画、アイドルとしてファンから「かっこいい!」と言ってもらえるようなラジオがアイドルとしての彼らの姿だ。
もちろん、アニメはストーリーに沿うので、全ての露出がすべてアイドルらしい、ということはできない。アニメ、二次元コンテンツである以上物語は必要だ。けれどこれもある意味ドキュメンタリーとでもいうべき映像に見えなくもない。

CDやコラボ商品というのは、ファンが選択して購入するものだった。だから、今まではそれを手に取るのは、アイドリッシュセブンのファンでありながら、彼らのことをよく知っている”マネージャー”たちだけだった。

アイドリッシュセブンでは、アプリを通さずにアイドルが仕事をするとき、絶対徹頭徹尾""アイドル""の顔しか見せない。その素顔はマネージャーになるアプリゲーム内でしかわからない。
アプリをやらなくてもアイドリッシュセブンというアイドルは応援することができる。より知りたい、もっと彼らの特別な姿をみたいという思いがある人がアプリをDLする。さながらファンクラブのようだ。有料会員(=課金)になれば、それ相応の彼らの姿が見られる。

アイドリッシュセブンという物語は、アプリ内で完結する。けれど、そこに彼らがアイドルであるという確証は得らない。
なぜなら、彼らが「アイドル」であるのはアプリ内のストーリーではないからだ。そこは彼らがほっとできる事務所であり、彼らの人生を見守るマネージャーたちがいる場所。そこにアイドルとしてほほ笑む姿は、ワンカット(カード)でしか見られないのだ。

アイドリッシュセブンプロジェクトの目標は「アイドルの創造」である。
知らない人が知るようになるということはそれすなわち、アイドルとしての立場を確固たるものにするということでもある。二次元のコンテンツとしての域を超えて、「アイドル」として創造されたアイドシュセブンの露出がどうなっていくのか。そこに二次元アイドルの新たな真価が出てくる……のかもしれない。



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