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【短編小説】おはよう。地球

「今日の外気は90度を超えます。展望デッキに出る際はお気をつけください。」
 第三管区の朝のラジオ放送が伝えてくる。まだしばらくは酷暑の太陽側が続く。月の第三管区は昨年できた地球退避用の最新シェルターだが、それでも外側に近い部分はかなり暑さを感じることがある。こう言うときは、地球を見るデッキ近くに行く時に熱射病に気をつけないといけない。

 淳と離れてもう1年近くになる。

 未知のウイルスに襲われた地球は、大気が汚染され、空気を普通に吸うことができなくなり、多くの人間が死んだ。さらに、ウイルスによってではなくて、有効なワクチンの争奪をめぐる戦争で無数の人が亡くなった。残された人間たちは月や海底などにシェルターを作り移住する計画を進めていった。


 彼と出会ったのは2年前だった。

 海外の大学でウイルス開発の研究をしていた彼が、論文の発表のために日本に戻ってきた時、その発表のサポートをしたのが涼だった。30歳を少し過ぎた彼は、研究室に数週間篭りきり、彼女は彼の論文の推敲やプレゼンテーション資料の準備をするために、その同じ期間、ほぼ寝食を共にした。
 カリフラワーのような縮れた髪と、筋肉質な下半身、そして優しい言葉遣いが特徴的で、いつまでも彼女のことを「さん」をつけて呼んでいた。

「地球が危ないんだ」

彼は何度もそう呟いた。

「どうして?」

そう聞く彼女に、彼は滔々とその理由を話し続けた。PCに資料を打ち込みながら、紙の資料をめくりながら、ご飯を食べながら、あるいは一緒のベッドの中で。

 論文を突き詰めていけばいくほど、彼には、人間こそが地球にとってのウイルスでしかないと言う思いから離れることができなくなっていた。

「人間が滅びるのが一番いいんだ」

論文の発表の後のディナーで彼はそういう。

 彼の話には賛同できる部分もあったし、そうでない部分もあった。大学の博士課程で環境開発を専攻している彼女にとっては、彼の話はあまりにも極論すぎるように思えた。

 それでも、彼が深いブルーのボールペンを人差し指と中指の間に挟み、テーブルをコツコツと叩きながら話をすると、その小気味の良い拍子は彼女の拍動に伝播して、彼女の鼓動は彼のリズムに色づいていった。

 出会って10ヶ月のクリスマスの日には、彼から、結婚を考えている、と言われた。結婚しよう、とは言われなかった。青山のイタリアンレストランでディナーを取り、表参道のイルミネーションの中を歩きながら彼はいった。

「もしも地球が滅びることを僕が防げるなら、君より地球を守る。だけど、そうでないならば、君と結婚することを考えている」

彼女は一瞬足をとめ、そして吹き出してしまった。

「それって、プロポーズじゃないよね?」

彼には、その意味がよく伝わらないようだった。

「だからさ、例えばこの地球が未知のウイルスに汚染されて、みんなが地球に住めなくなったとして、僕がそのウイルスに対して対抗できるワクチンを開発できるなら、僕は君と一緒に逃げずに、この地球に残ってワクチンの開発をすることを迷わずに選ぶ、ということだよ」

 地下鉄の表参道駅から原宿に向かう道にイルミネーションがアーチをなし、その下を車が赤いテールランプを所狭しと並べている。ショーウインドーの並ぶ歩道には、後ろの人の息遣いが聞き取れるくらいの間隔で人が数珠となり連なる。故障したエスカレーターのように動かないその道は、それでも多くの恋人たちの距離を縮め、吐く息は白く温かい。涼は思う。このままこの時間が続いてほしい、ウイルスなんかやってこなければこの時間が永遠に続くのだろうか、そうならば、そうあってほしい。
 淳が手を入れているコートの左のポケットに涼は手を入れる。細いけれど力のある指が彼女の指を握りしめる。

 
 次の年の2月に地球は未遭遇の新型ウイルスに襲われる。致死率の非常に高い、容易に空気感染をするウイルスで、誰もが自由に外に出ることはできなくなった。涼と淳もオンラインで逢引きを重ねるしかなくなった。

 5月に某国よりワクチンが開発され、すぐに主要各国に行き渡った。しかし、その量は十分ではなく、大国同士によるワクチンの争奪戦が始まった。初めはサイバー攻撃により都市機能が麻痺した。ある国の首都ではインターネットが使えなくなり、人々の暮らしは一気に混乱した。現金を銀行からおろせず、WEBマネーは使えず、人々は食べ物や日用品を求めてスーパーを襲った。州政府はそれに軍隊を出し偶発的とはいえ、州民を多数殺してしまった。
 これがきっかけでその国全土で暴動が起こった。そして、その暴動に周りの国が加担をしたのだしていないだので揉め、最終的に戦争になった。
 その戦争の混乱に乗じて、小さいけれども最近に核保有国となったある国が、旧型の核弾頭をテロリストに売却をした。そのテロリストは中東に向けてその核弾頭を転売し、中東のテロリストがこのミサイルを発射することを宣言し、ネットでその映像を公開したところ、ある国が先制攻撃と称しその施設を核攻撃をした。地球上で核のタガが外れた。数百発を超える核爆弾が地球上を飛び交い、人類の過半数が死んでいった。

 世界に広がった戦いの中でも、ウイルスは広がり続けた。しかも、元々争奪しあったワクチンは、変異を遂げたウイルスの前では全くの無力だった。

 ようやく8月になり人間は自分たちの愚を悟る。国連中心に国際協調が実現し、停戦が取り決められ、代わりに世界の優秀な科学者が集まって、何箇所かで、ワクチンの開発と治療法の開発が進められた。
 しかし、すでに地球は防護マスクなしでは外に出ることが許されない状態まで来ており、放射能汚染もあり、ワクチンの開発そのものに疑義的な国々や人々は、地球からの移住計画を作り始めた。
 日本では「KAGUYA計画」と言われ、汚染状況のひどい東京で生き残った約100万人が順次月に移住する計画が作られた。
 人類の期待を込めて作られたニューバージョンのワクチンは11月ごろからテストが始まったが、時を同じくしてウイルスはさらに変異をとげ、いくつかのワクチンは全く効かず、いくつかのワクチンは重篤な副作用のみを残した。科学者たちは虐げられ、多くが非難され殺された。


 この結果を見た日本は、年の変わった1月にKAGUYA計画を実行に移した。用意したスペースシャトルに次々と乗り込み、まず3万人が地球を出て月の表側に移住することになった。スペースコロニーは3つの管区に分かれ、涼は第三管区、概ね東京都の西側の都区部の人々の住むエリアに移住することになった。
 日本だけでなく、世界の各国でさまざまな月移住や、南極、あるいは海底への移住プロジェクトが進んでいた。

 その一方で、世界の若手の科学者や医療者たちは密かに、新たなワクチンの開発を進めることにした。それが「地球再生プロジェクト」だった。すでに国としての正式なワクチン開発は断念されていたけれども、インターネット上に集った有志400名程度の科学者や医療者がオンラインで研究を続け、治験を続けていた。その活動はSNSでは「最後の希望」として静かに広がっていった。

 涼が早期の移住候補に上がったのは、年齢の高い祖父母と共に暮らしていること、その祖父母がそれなりに健康であることが理由だった。コロニーでは長期間の生活が予想されるため、一定の社会形成をするために、バランスよく世代を配置することを大事にしていたが、高齢者はある一定レベルで健常でないと月への移動、月での生活に支障をきたすと思われていた。

 出発はお台場にあるオリンピックセンター跡地からで、旅立つ人たちは、前の日には、こちらもオリンピックレガシーの旧選手村に集まった。そこで初めてどういう人たちとともに移住をするのかがわかった。
 明日からは外部とのやりとりを禁止されるため、スマートフォンやPCが没収される。だから、淳と交信できるのも当面これが最後になると思われた。月に移動してからどうやって地球と交信するのか、地球にいる人々と連絡を取るのかは知らされていなかった。よもや、自分のスマホが使えるとは思ってはいなかったけれども、何某かの通信手段はあるのだろうとは思っていた。けれどもはっきりしたことは伝わっていなかった。
 大きなヘッドフォンを耳に当て、iPadの画面を立ち上げ、FaceTimeで淳にコールする。淳はすぐに反応し接続をする。彼がいる場所が今どこなのか、彼女は知らない。地球再生プロジェクトのメンバーは反政府的活動をしているとみなされ、政府からはその行方を追われている。だから彼らはどこかに匿われて研究を続けている。

「怖い?」

淳は涼に聞く。

「少し。」

「でも、月は安全だよ。行く人は全員完全にクリーンだし、機器も全て消毒されているから、マスク外して、みんなで顔寄せ合って食事して、お酒飲んで騒いでも大丈夫。僕は羨ましいよ」

涼は小さく頷く。

 出発を待つ人たちは数名ごと1つの部屋に入り明日を待っている。涼の部屋には同じような年頃の女性が4名一緒だった。みんなヘッドフォンをして、スマホやPC、タブレットなどを見ている。自然、声は小さめになる。言葉にはしないけれど、誰もが不安を感じている。確実に月にいけるのか、普通に暮らせるのか、そしていつか地球に戻って来れるのか。だから、彼がいうようなことを楽しみに思うような気持ちには到底なれない。

「淳はちゃんと寝てる?」

彼は研究に没頭すると文字通り寝食を忘れ、気をつけないとどんどんと痩せていく。彼女はそれを気遣う。

「大丈夫だよ。1日2、3時間は寝るようにしている」
「あと2ヶ月後くらいにはきっと地球からいい結果が発信できるはず」

彼女は心で頷く。その代わりに少し涙が出てくる。
 言葉のない時間が通過する。WEB越しでもちゃんと気持ちは行き交いをする。リアルで会うことが非日常になってみると、オンラインでも人間はちゃんと血の通ったコミュニケーションが取れることがよくわかった。

「月に行ったらどうやって連絡を取るの?」

涼は淳に聞く。本当はそれは淳が涼にすべき質問だった。
「どうだろう。宇宙との交信には地球上で今みんなが使っている機器は使えないって言われているけど、単にインターネットに繋がるかどうかだけなんで、実は普通にスマホが使えるようになっているんじゃないか、と思うよ。コロニーでは。」
「ただ、いろいろ機密の問題とかがあるから、自由に地球と交信、ということにはならないと思うんだ」
「決められた時間に、決められた方法で、ということになるんじゃないかな、きっと」

淳の説明はいつも少し分別くさいし、説教くさい。全然デリカシーがないし、余計な装飾もない。でも、乾いたその声にも彼女は彼の愛情を感じることができる。小さな声の粒子にはきちんと彼の湿度が込められていて、その粒子の生温かさを彼女は感じることができる。

「おやすみ。」

「おやすみなさい。」


 月への移動は思っていたよりあっさりとしていた。飛行機に乗るのと大して変わらない。月までの約38万キロメートルはたったの3日と半分程度で消化され、彼女たちは月へ到着し、第三管区と言われるスペースへ連れて行かれ、そこにある部屋をあてがわれた。
 部屋は概ね移住する家族ずつに割り振られ、20畳程度のスペースが1家族ごとにあてがわれていた。涼の家族は祖父母含め5人だったので少し窮屈な感じではあったけれど、ベッドなどは立体に配置され、サイズも一人ずつセミダブルサイズになっており、鮨詰めにされている、という感じでもなかった。
 食事は1日3回部屋に運ばれてきた。大きな集会場がたくさんあって、そこでは地球のテレビが見れるようになっていた。雰囲気は大きな病院の待合室という感じだった。管区ごとに真ん中に大きなショップがあり、そこではお酒やタバコの類も手に入った。ただし、購入点数は制限をされていた。

 到着して部屋に入るとすぐに、一人一人にスマートフォンが配布された。この管区内ならば使えるもので、インターネットに接続をするので、地球と同じ環境で使用ができるということだった。ただ、利用できるのは、この月から日本が見える間であり、かつその日本が昼間の時だけ、ということだった。理由はよくわからない。 
 月から見る地球は、地球から見る月のように満ち欠けをする。そして、地球が青く見えるのは、地球に太陽が当たるときであって、日本列島が月側を向いていて、太陽の当たっている時間だけインターネットに接続することができる。つまり、淳と更新できるのもその時間ということになる。
 月から見た地球は、東から明るくなってくる。つまり、日本に朝がやってくるときに、月から見た地球も青くなっていく。

 生活がスタートしてみると、特に不自由はないものの、とにかく暇だった。インターネットが使える時はまだいい。けれど、それ以外の時間は、とにかくやることがなかった。シアターもあるのだけれど、見れる映画は限られていた。
 
 淳との交信も問題なくできた。普通にFaceTimeがで接続して、お互いの様子を報告した。
 
 彼の研究は微妙な時期を迎えていた。新しいワクチンはは開発されたらしい。治験も進んでいるらしい。しかしそれに伴い彼の行動はより一層制限をされるようになり、現在自分がどこにいるのかは彼すらもわからないそうだった。

「あと数日したら、しばらくは外部との交信は禁止されると思う。この治験が良好ならば、新型ウイルスに対して間違いないワクチンの開発を完了したことになる。地球が再生する。と同時に、それをめぐる危険も生まれることになるかもしれない。人間は同じ過ちを繰り返すから。だから、一気に普及させるために、秘密裏に世界に満遍なく普及できる状態を作って、そして公表することになると思う」
「4月1日の朝、地球が月から青く見え始めた時に繋いで欲しい。その時僕が元気に応答できれば、きっと地球は救われているはずだよ」


 しかし、問題はそう簡単には進まなかった。

 3月の中盤になり、完全クリーンな状態を確保したはずの移住者の間で、新型ウイルスの発症者が発生した。40代の男性で、どこの誰かということは全体には公表されなかった。しかし、日本人の用意した都合12の管区のどこかで発生したということで、コロニーの状況は一気に変わった。

 全員が部屋から出ることを禁止され、違反者は警戒ドローンに発見されるとその場で射殺された。食事は配膳ロボットが運んでくるようになった。そして、情報統制のため、全管区内でインターネットの利用は禁止され、通信機器の類は没収された。
 何がどう進行しているのか。コロニーには簡単な診療所や薬をもらえるところはあったが、入院隔離できるような病棟は1つしかなく、病床数も少ないとい聞いている。ウイルスは蔓延してしまっているのか、それともその一人の問題で済んでいるのか。情報は一切遮断され、皆が疑心暗鬼になる。家族でも、咳をひとつするだけでも、ギョッとした空気になる。

 4月1日を超えても状況は変わらなかった。淳との交信はできなかった。

 淳は私からの連絡を待っているだろうか。そして、連絡が来ないことに少しは失望をしているだろうか。あるいは、状況をすでに知っていて理解をしているのだろうか。涼は画面の前で彼女からのコンタクトを待っている、待ち続けている淳を想像してみる。想像してみると、きっと彼はそんなことをしていないだろう、と感じる。そういうタイプではないのだ。

 部屋の外に出ることもできないので地球を見ることもできない。涼にできることは、このコンクリートの分厚い壁のはるか38万キロかなたで頑張っているであろう淳の姿を思い描くことだけだった。ワクチンの開発は成功したのだろうか。地球は一体どうなるのだろう。そして私たちはもう一度会えるのだろうか。

 せめて声だけでも聞きたい。オンラインでしか会えなくなって1年、会えないことにいつも気持ちがなえてきた。でもそれは、リアルで会えるという現実が直前のステップにあったからで、今こうして、画面を通して姿を見ることができず、声も聞けなくなると、なんとか声だけでもいいから聞きたい、それだけでいい、と強く思う。人間はつくづく自らの感覚に支配されている生き物だ。


 4月半ばになり、彼らの部屋の扉が不意に開かれる。40代の男性は発症したのち回復し、さらにその家族、そして日本人のコロニー全員に検査をしたところ、3週間以上にわたり発症者がいなかったため、管制センターは緊急事態宣言を解き、日常が戻ってきた。ただ、もう1ヶ月間は警戒期間として管区を超えた移動は禁止され、さらに家族以外との食事も禁止をされ、展望デッキの使用も順番制になった。

 涼は戻ってきたスマートフォンで淳にコールをする。何回もコールする。しかし彼からのレスポンスはなかった。何回もコールをした。何回も。
 スマートフォンは発掘された古代の石板のように無反応で、無意味なものに見えた。

 頭の中で何かがぐるぐる回っているけれど、それが何かを探そうとすると、それを追いかけて今度は自分がぐるぐる回り出す。自分がぐるぐる回っていると、頭の中で探していたものはまっすぐ動いているように見え、代わりに自分だけが混乱していく。


 4月の後半になり世界が一変するニュースがもたらされた。
 地球で密かに開発が進んでいたワクチンの有効性が実証され、すでに2000万人以上に向けて摂取が完了し、ほぼ100%にちかい効果を発揮しているという。重篤な副反応もほとんどなく、世界各国の首脳は「人類の勝利」を高らかに宣言をした。

 月に移住した人々も、希望者から順次日本への帰還が計画された。ただ、スペースシャトルの用意などは早くとも1ヶ月はかかるようではあった。それでもコロニーの中ではみんなが抱き合い、踊り合い、お酒を飲み合い、多くの人は涙をした。ウイルスの拡大以降1年以上、心の底から笑ったことも、嬉しくて泣いたこともなかった。忘れていた気持ちが人類に戻ってくる。

 もちろんその知らせは涼の心も踊り上がらせるものだった。そして、それと同時に、いやそれ以上に、そんな状況ならばなおさらに、どうして淳が反応をしてくれないのか、なぜ彼はこの嬉しい報告を一緒に彼女と分かち合おうとしてくれないのか、彼女には寂しさとともに、恐ろしい推測をせずにはいられなかった。

 このワクチンを開発したのは、間違いなく「地球再生プロジェクト」だ。しかし、日本政府から、あるいは世界の国々からの発表では、そのプロジェクトの「ち」の字も出ないし、誰がどういう形で開発したのかなどについても全くリークがされていない。マスコミですら、一切その手の報道がない。そこには、間違いなく不自然の気配がある。国家権力からすると、そのプロジェクトの存在を知らせたくない何かがあるのではないか、もしそうならば、このプロジェクトに関わってきたメンバーはどうなるのだろう?子供じみた発想だとは思うけれども、「開発における秘密を知るものは生かしておけない」というような古典的なストーリーが彼女の頭に渦巻く。

 彼と連絡が取れないのはそのためではないか。このプロジェクトに関わった人は、何某かの形で自由を拘束されているのではないか、あるいは、場合によっては。。。

 4月の後半の数日は地球が1日中真っ暗になる日が続く。その数日間、このコロニーの一般の人々は地球とは交信ができない。彼女の心は焦る。早く、早く彼と繋がらなければ、彼を見つけなければ。彼を救い出さなければ。

 4月28日。この日は久しぶりに月から東京が青く見える予定だった。月でいえば新月から三日月の間のようなもので、見えるのはほんのちょっとの時間でしかない。それでいい。何秒でもいい、淳のいる地球にコンタクトしたい。私の声を彼に届けたい。

 展望デッキは今日は彼女のルームの日でないのだけれども、近くの部屋の人に譲ってもらった。朝の5時過ぎから展望デッキに急いで行き、階段を登った右前方に見える黒い地球を見る。

 真っ暗な宇宙に浮かぶ、黒い球体。その存在は、地球の地上の街の光や、家々の光が宇宙に届いていることで知らされる。なんと明るいことか、と思う。私たちが暮らしている地球では、こんなにもたくさんのエネルギーを宇宙に向かい放ち続けている。この電気の光は、100%人間が作り出しているものだ。なんという人間の力なんだろう。

 彼女の右手、地球の東側が少しだけ青い。三日月の半分くらい。スマートフォンを出し、FaceTimeを立ち上げる。そして、淳のアイコンをタップする。
 
 地球は回っている。地球はすごいスピードで回っている。月に来て一番びっくりしたことだ。
彼女は地球の右端に日本の姿を見出す。細長い。そして弓のような形だ。

 この数日間で地球は何かが変わっただろうか。この1年で変わりに変わった地球だけれども、人類はその元凶と言えるウイルスには打ち克った。でも、地球がこんな困難な状態になったのは、本当にウイルスが原因なのだろうか?それは、ウイルスが「きっかけ」なのではないだろうか。ウイルスがきっかけで、大量破壊兵器を無尽蔵にためてきた人間のタガが外れたことによる死者の方が断然に多いならば、それは、ウイルスの問題ではなくて、人間の問題であるはずだ。
 そして、もしも、このワクチンの功労者であるであろう淳の身に、人間の同じような醜さによる魔の手が差し迫っているならば、、、そうならば思う。こんな人類など必要なのだろうか?淳の言った言葉を思い出す。

「人間が滅びるのが一番いいんだ」

 彼女もそう思う。いや、そう思いたくない。その時もそう思った。それよりも、彼女は思う。私たちの愛情は、人を思う力は、もっともっと強いはずだ。一人の人を心から好きになった時、私たちは無条件の愛情を持つことができる。お金なんて入る余地もないくらい、びっしりと一人の人間と一人の人間の間に愛が敷き詰められる。そして、そのような愛情を持てる我々は、さらに進化をし、その愛情を、自分たちではない誰かにもしっかりと向けることができる生き物に進化した。人を思いやる力を手に入れてきた。人を思いやって、たとえ自分が犠牲になっても誰かのために尽くすことのできる、そんな生き物になってきた。

 そんな人間が滅びるのがいいとは思えない。

 彼女は強く思う。私の気持ちは、真の闇であるこの宇宙空間を突き抜け、淳の元に届く。淳を探し出す。そして、彼を抱きしめこういうのだ、「おはよう。」と。

 一度切れたFaceTimeから聞き慣れたコールが届く。
 通話の緑のタップを慌てて押すが、一度押し損なって、もう一度慌てて、でもゆっくりと通話ボタンを押す。

「おはよう。」

 その声は彼女に、地球が生まれてからこれまでの全ての記憶を投げかけてくる。地球が生まれた奇跡、生物が生まれた奇跡、人類が生まれた奇跡、そしてただ二人、私と淳がこうして生きている奇跡、それを「奇跡と言っていいんだよ」と地球は教えてくれる。涼はその奇跡に涙する。
 だから、私たちは大事にしなければいけないのだ、この青い地球を。彼女は改めて地球を見る。三日月に光る青い地球はなんと美しいことか。なんと神秘的なことか。

「おはよう。地球」
彼女はいう。そして彼に向かって小さく微笑む。


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