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海の底にはオクトパス・ガーデンがあってさ

 その日は朝からとてもうんざりしていたんだ。太陽は僕の肌を焦がすほどに勇ましく照りつけて、風はぴたりと音もなく止まっていてさ。時々雲がゆっくりと形を変えながら頭の上を流れていくんだ。僕はそんな全てにうんざりしていた。僕は庭へ出て、おばあちゃんが大事に育てている鮮やかな花に水をやって気を紛らわせようと思った。赤や黄色が緑の上で素敵に映えるガーデン。階段を降りて庭へ出てみると、7つ下の弟が友達たちと夏休みの思い出作りに励んでいた。庭にツリーハウスを作ろうと目論んでいたんだ。もうすぐ14歳になる僕は既に仲間との工作を郷愁のものとしていたから、羨ましいな、って顔見せながらチャリに跨ったんだ。「お子ちゃまが。」

 この島でチャリに跨っていく場所といえば一ヶ所しかない。坂を降った先の港だ。のどかでつまらないこの島はその昔、観光業が盛んだったとよく大人は言って聞かせる。どこかの国の公妃まで来たらしい。一体どんな目的でここを訪れたのだろう?僕にはわからないけど、確かに港はいい。空と海とが遠くで繋がって一つになっている。どんなおしゃべりの人(例えばママ)でもひとたび海の前に来ると無言になってしまうから海はすごい。

 だけど僕は海が時々静かに狂ってしまうのを知っている。この日も、そうだった。

  今となってはほとんど誰も来やしない港でクルージングやカヌーを営むおっちゃんがいて、いつも腰にラジオを巻いて船の中で寝そべってる。その日、僕が港へやってくると、ラジオからは『全ての若き野郎ども 何か面白ことはないか 何もすることのないお前たちに 何か変わったことはないのか?』なんて歌詞の曲が流れていた。おっちゃんはハミングして、そして時々『俺は、お前らみんなに聞きたいんだ!』なんて合いの手を入れたりしていた。その歌は、僕と風景とを一つに繋いでくれた。何か面白いこと、何か変わったこと、か。

 曲が終わったところで僕は、どういうわけか気まぐれに「おっちゃん!」と呼んでみたんだ。いつもはそんなこと決してしない。僕はもう大人だからね。だけど、恐らくあまりの平凡さにうんざりしていたんだろう。何か新しいことを求めていたりして。その時もし仮におっちゃんがラジオから流れてくる音に没頭しているか、或いは眠っちゃってたりして何も返事をしなければ、その日もそのまま平凡が平凡として終わっていっただけだったはずなんだ。

 「おう坊主!船でも乗るか?」なんて言われたのはその時が初めてで僕はびっくりした。そしてさらに驚いたのは、自分が二つ返事で「乗る!」と返していたことだった。まるで子どもじゃないか。
 おっちゃんに導かれたのは港の一番端っこにつけられた真っ黄色の潜水艦。デザインは少し古めかしく、それでいて船体に塗られた目の冴えるヴィヴィッドイエローに真新しさを覚えるような不思議な船だった。僕はその船に見覚えがないことに驚いた。僕にもこの町でまだ知らないことがあるんだ。船にはいくつかの窓が船の側面についていて、丸みを帯びた船体はどこかの国のお土産のようだった。おっちゃんの後に続いて船に乗り込むと船体がぐらっと揺れて僕は怖くなった。正直に言って、僕は船に乗ったことがなかった。パパがどうしても乗るな、と言って乗せてくれなかったんだ。そのことが頭によぎって「やっぱりやめとくよ」と言いかけたけど、それもやめにした。何か変わったことをしなくちゃね。

 「この船はその昔、旅行客がこぞって乗ったんだぞ。嘘じゃない。海が緑色に見えるところまで行って、船で潜るんだ。それはそれは綺麗な海底が見渡せる。そこではタコが自分の庭を構えて何やら煌びやかに装飾してるって話もある。誰も見たことは無いがな。だが、海は汚れてしまった。この島は人が海を汚して、自分達の食い扶持を無くしちまったんだ。そんな馬鹿なことあるか?坊主。」

 船に乗るなりいきなりおっちゃんはこう語り、僕を曖昧に頷かせた。おっちゃんはそんな僕の反応を気にもせず慣れた手つきで船の出航準備を進めた。壁にかかっていた帽子を被らせてもらうと、僕もすっかり船長さんの気分になれた。しばらくして、エンジンが焚かれる音でおっちゃんのラジオの音もそこへ吸い込まれた。轟音の中、おっちゃんがゆっくり確かめるように頷くと同時に船がゆっくり沈み始めるのを感じたんだ。刹那、身体が宙に浮くような心地がした。僕は慣れない揺れに耐えかねて思わず手すりに捕まった。船の先頭にいるおっちゃんの顔を見ると、彼はにこにこ楽しそうに笑っていた。それで、僕も笑った。今日という日が幾分楽しくなる予感がした。

 海に潜って少しすると、そこがかなり濁っていることに気付いた。2m先でさえ見るのに苦労した。時々、プラスティックの袋や、どういうわけか車のタイヤなんかが流されたり沈んだりしているのを僕はこの目で見た。海底の海藻はゴミのようなものをまといながらもの哀しそうにダンスしていた。その景色はあまりにひどくて、僕はどこを見ていいのかわからなくなった。おっちゃんは真っ直ぐ船の進行方向を見ていたからその表情は見えなくて、僕はどうすべきなのか迷った。こうして初めて海に潜っていることを子どもらしく喜ぶべきなのか、お行儀よくおっちゃんにありがとうと感謝をすべきなのか、はたまた正直に「海、汚いね」と言った方がいいのか。僕はその時努めて全ての物事の良い部分を見つけようとしていたんだ。そこで僕はさっき弟たちの取り掛かっていたツリーハウスを思い出して「なんだかおうちみたいだね」と言った。それは思いつきで口にした言葉ではあったものの、同時に本心だと気づいた。潜水艦の中でさえもいつもと変わらず呑気なおっちゃんは僕に絶えず安心感を与えてくれたんだ。地上では感じられない何かを確かに感じた。無力感とか、ハーモニーとか、そういうの。

 おっちゃんはそれから海面へ船を上昇させた。甲板へ出て再びラジオにスイッチを入れ、先刻の港のようなゆったりとした時間が流れ始めた。ラジオからは60年代のヒット曲が流れてきて、おっちゃんは機嫌が良さそうだった。僕もそのキャッチーなメロディーをすぐに掴んで一緒にハミングした。
「お前の言う通り、おうちだな」
「うん、そうだね」
 波は穏やか、風も心地よく肌を撫でて、こんな漂流だったらどこにも辿り着かなくていいな、なんて思ったりした。青い空は僕に無意味なことなどどこにもないと思わせくれた。大事なのは自分の気持ちに従うことなんだってね。

 心地のいい音楽に身体を委ねているとといつの間にか眠ってしまっていた。一体どれほど眠っていたのだろう?目が覚めると空には灰色の雲が覆いかぶさってすっかり太陽を隠してしまっていたんだ。見える景色も、穏やかだった波もさっきとはまるで様子が違ってさ。時より聞こえる大きな動物の悲鳴のようなひゅうひゅうという風の音が僕をすこぶる不安な気持ちにさせたんだ。甲板におっちゃんの姿はなく、僕は状況を飲み込むことがしばらくできなかった。ほんとうに怖かった。

 パパから教えてもらったように深呼吸をすると(「何か大きなことに取り掛かる時は、一に深呼吸だ。」)風の中、途切れ途切れになっているラジオの音が聞こえた。ほとんど砂嵐の音。音の聞こえるところまでいってそれを拾い上げようとしたんだ。すると突然、船が傾き始め、船のお尻の部分が高く迫り上がって、そのまま船は頭から海面に突っ込んでった。僕は振り払われないように左手で船の柵をぎゅっと掴んだ。右手にはラジオを。どちらを離しても僕はもう二度とパパやママ、それに弟たちに会えなくなると瞬時に悟ったから。

 海の中で船は平衡を取り戻し、僕はそこでどういうわけか息ができたんだ。地上はほとんど嵐だというのに、海の中はゆったりと時間が流れているようだった。あたたかくて気持ちがよかった。(僕はどこに来たのだろう?)さっきおっちゃんの潜水艦の中から見た海とはまるで違った。そこは綺麗なエメラルドグリーン色に透き通っていたんだ。太陽の光が幾重にも重なった波の布を通りながら海の底まで光を届けようと必死なのはとても幻想的だった。僕はその中で、ただゆったりとした波、これ以上ない静けさ、ママにハグされた時のような安心感にうっとりしていた。僕ほんとうはまだハグが好きだったんだ。ごめんね、ママ。

 パパはよく「いい時があれば必ず悪い時が来る。絶えず悪い時に備えられるのがかっこいい大人なんだよ」と言った。僕は海の中で、完全にいい時を過ごしていた。頭の中に張り付いたものは何もなく、クリアな海が僕の全てをクリアにしてくれていたんだ。(空の青は均一で、海の青には抑揚があった。)だけどパパのこの言葉を思い出したのが先か、徐々にあたりが闇に包まれ始めたのが先か、とにかく事態は明らかに悪い方向へ向かっていた。暗闇では僕はあたたかさを感じにくい気がする。冬のお布団が最初あまりにも冷たく感じてなかなか寝付けないように。
 潜水艦は突如コントロールを失った。スピードを上げながら下降したのさ。海の下には何もなかった。何も、見えなかった。ぶくぶくぶくぶく。耳の中でくぐもった空気の振動が聞こえる。船は途中で反転をした。真っ逆さまになって、僕の足の下にあったはずの海底は僕の頭の上にきた。それで僕はまるで海面へ上がっているような心地がした。そして程なくして海面に近づいたかのようにまばゆい光の筋が目に飛び込んできたんだ。

 それは明らかに太陽の光とは違った。発光しているのが一箇所ではなかったから。加えて光は一色では無かった。赤や黄色や翡翠の色。まるでおばあちゃんのお庭のように綺麗だった。もっと近づいてそれを見たいと思った。海底に近づき、その光にさわれる!そう思って手を伸ばした拍子に、僕はおっちゃんのラジオを落としてしまった。おっちゃんのラジオは瞬く間に波に流されていき、程なくして見えなくなった。

 潜水艦は逆さまのまま海底に静かに腰を下ろした。おつかれさま。僕はそこに降り立って、鮮やかな光の正体を知るために一歩二歩、足取りを進めた。すると、にゅるっとした感覚が僕の足に伝わったんだ。僕の足に巻き付こうとしていたそれはタコだった!おっちゃんの言っていたことだ!僕はタコが本当に8本もの足を自在に操って海底を這いつくばっているなんて思いもよらなかったからびっくりした。
 タコに導かれついていくと、彼らはまるで僕のおばあちゃんのように庭を彩っていた。瓶の欠片のようなもの(誰かのボトルレターはここに漂着していた)鉱物のようなもの、プラスティックのようなものまで様々だった。それらは息を呑むほど美しかった。僕は彼に話しかけてみた。

「どうやって見つけてきたんだい?」
「色んなスペシャルなものがここには流れ着くのさ。俺たちは誰が一番スペシャルなオクトパスズ・ガーデンを作れるか競い合っているのさ。」

 近くに来てみると彼らは家族らしく、一匹につき一つ家があり、さらにその周りにガーデンを持っていて、それらは一つとして凡庸なものは無かった。彼らは僕がどこからやってきたか既に知っていて、僕を家に招き入れてくれた。タコの家族は僕に豪勢な食事を振る舞ってくれた。アジやイワシやサバだ。僕には少し少なかったけど、美味しかった。それから彼らと音楽をかけて踊ったのさ。海底で。踊りつかれると彼らに捕まって海底を泳いださ。すべてがとっても楽しかった。ママのようにガミガミ言われることもなければ、パパのように時々立ち止まって考える必要のある言葉を投げかけてくることはなかった。全てが特別だったんだ。その頃には僕はこのままこうして海底の奥底で暮らしていきたいような気持ちにさえなっていたよ。なんというか、それほどに幸福な気持ちになったんだ。僕はツリーハウスを作っていた弟たちをここに招きたい気持ちになった。もっともっと、素晴らしい隠れ家があるんだぜ。

 夜になって、僕は海底に頭をもたげて眠った。家族の中で息子にあたる彼の部屋だ。僕たちは既に親友だった。まるでこうして何年も過ごしてきたかのように、何をするでなくともぴたりと歯車があっていた。タコの1日の生活を聞いて、僕の1日のことを話した。彼はとても退屈だね、と言ってくれた。うん、僕には君がとても特別に見えるよ。

 眠りにつくや否や僕は夢を見た。それはとてもとても長い夢。夢の中ではママもパパも僕にとてもやさしかった。彼らの姿は不自然に凹んだり歪んだりしていたけれど、それでもよかった。ママは僕のテストの成績のことで怒らなかったし、パパは僕をキャッチボールに誘いしてくれた。それからママとパパはいつも決まって二人でしか行かないクラシックのコンサートへ僕を連れて行ってくれた。バロック様式のホールは荘厳で、些か心がざわざわした。両サイドから弦楽器を持った人がそれぞれのテンポで足音を奏でながらぞろぞろとステージに出てきた。誰かの咳払いでさえ響き渡るような長い沈黙を作り、演奏が始まった。それははっきり言って僕にはつまらない音楽だった。僕は眠ってしまった。夢の中でだ。観客席で目が覚めるとママもパパもいなかった。
 ステージ上にオーケストラの姿ははなく、代わりにあるバンドが演奏を始めようとしていた。ボーカルは手を後ろに回して組み、右肩を落として下からマイクにかぶりつくように歌っていた。弦楽器を持った数人が演奏を開始すると、僕の耳はボリュームのつまみが急に回されたようにクリアに音を捉え始めた。弦楽器のハーモニーはまるで天空への扉が開かれる心地のするオーセンティックな調べだった。
 その歌は「僕が何をしても/何を言っても僕の自由なんだ」ということを歌っていた。何もいうことがない素晴らしい曲だった。客席にいたのは僕一人のはずなのに、場内の拍手喝采の音は鳴り止むことを知らなかった。その曲を聞くまでの僕はどこか、人が期待する僕であろうと努めていたように思った。何をしていてもどこか自分の意志と行動とがダイレクトに結びついていない心地がいつも僕を本当の悦びから遠ざけていたような気がする。僕はこの海底にもたげた頭の中で夢を見て、ようやく自分で世界に立てたような心地がしたんだ。本当なんだって。

 朝、目が覚めると、僕はどこにもいなかった。真っ暗の空間に全方位から押し込められて身動きが取れなかったんだ。僕は海底の奥深くで眠ったままそこに精神をぽとりと落としてしまったみたいなんだ。僕の名前を海に向かって叫ばないで。


8月4日お昼過ぎ、S島沖で「男の子が倒れている。」との通報が近隣住民からあり、その後病院に搬送されましたが死亡が確認されました。地元警察によりますと、死亡したのはこの島に住む14歳の少年で、7月28日お昼過ぎに家を出たきり家に帰っていなかったものの、捜索願いは出されていなかったとのことで、家族との関係について慎重に調査を進めています。

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