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読書の記録 9月

読書
2023年は月に二冊ずつ読もう。それで何かしら感想を書き残そう。

9月

①沼地 芥川龍之介

あらすじ:ある展覧会で気になる作品を見つけた主人公。無名の作家で、とくに人目を集めるような作品ではないが、主人公は妙にこの作品に惹きつけられる。

芸術の本質を端的に描くことが主題であるように感じた。作家が無名か知名かということではなく、見た者・聞いた者が感じたものこそが本質なのだ、と言いたげであった。商業性を帯びた芸術と作家のしたいままに表現された芸術というのはどの時代も相入れないものであったと思うが、芥川にもそんな苦悩はあったのであろうか。絵の見方は人それぞれに自由であるが、気違いの絵だということを聞いて「恐しい焦躁と不安とに虐まれている傷しい芸術家の姿」を絵の中に見るところはやや自己陶酔やスノッブのきらいがあるようにも感じた。そこから振り返ると、冒頭にある、絵画展覧会場にある油絵で「一顧さえも受けな」いことなどありえないと思った。
「傑作です。」と最後に述べた際の、「記者の顔をまともに見つめながら、昂然としてこう繰返した。」という「まともに見つめ」るや「昂然と」という描写からも、どこかいけ好かない奴だという感じは伝わってくる。自分の信念を曲げたくない頑固さや大衆に迎合しまいとする精神が当時の芥川にあったのであろうか。

②ヒョンナムオッパへ チョ・ナムジュ

この作品を赤坂のセレクトショップ系本屋で立ち読みをしていて思い浮かんだ作品が二、三ある。
太宰治の「きりぎりす」と、僕が昨年書いていた短い物語だ。

太宰治の「きりぎりす」という作品が好きだと気付いたのは初読から3年ほどの月日が経ってからだろうか。はじめて読んだのは大学2年の頃だったとおぼろげに記憶している。

https://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/1571_20655.html:title

話は昨年へ。僕は昨年の夏、遠く離れたカナダ・バンクーバーにいた。中心部から40分ほどバスで南西に下ったケリスデイルという場所で、インド人7人とシェアハウスをしていた。

その頃、家から歩いて3分ほどの場所にあるマクドナルドへ行って、haruyのsnakeという曲にインスピレーションを受けた短い小説を取り憑かれたように書いていた。そこには、集めるとコーヒーがタダになるステッカーをせびりにくる痩せた中国系のおばあさんや、夜遅くまでたむろする地元のティーンたち、訛りの強い英語で職場の愚痴を言うインド人たち、とにかくいろいろな人が出たら入ったりしていた。そこでは、僕は「アジア人」だということ、その中でもとりわけ「日本人」であることを否応なしに意識せざるを得なかった。それまで考えたことのない自分の枠みたいなものを考える良いきっかけだったと今になっては思う。

さて、その小説は完成に至らなかった。一言で言って仕舞えば、長い小説を書くことへの体力不足、構成力不足だったと反省している。ただ、その表現方法、とりわけ文体については一定の満足感を覚えた。意識せず、それは手紙の文体を取っていた。自分の元を去った彼氏に対し、呼びかけるように心情を生々しく吐露し、過去の出来事への心中(「あの頃こんなふうに感じたのよ、私。」というような)を書きたい時に、手紙や独白体は読者にリアリティを伴って迫ってきやすいと感じた。ともかく、感傷的でありながらその感情の動きをつぶさに保存、拡大、圧縮する人の心情を描くのにもってこいだと感じた。

この春、私は大学に復帰した。年下だった学生たちと同学年として机を並べ、近現代文学ゼミナールに所属して様々な作品を扱った。その中の一つが「きりぎりす」であった。僕は読みを進めて、冷気が足元から伝わる時のような全身のゾクゾク感と妙な納得感をこの作品の中にみた。僕の作品は知らず知らずのうちに「きりぎりす」の影響を強く受けていたのだった。
「きりぎりす」も「お別れ致します。」から始まる、妻から夫へ向けた独白体を取っている。その時に私はこの文体が私の書いた物語に強く影響を与えていることを知った。その時まで「きりぎりす」のことは全く忘れていた。

そして9月、この「ヒョンナムオッパへ」の冒頭を読み、これは買います、と思った。作者は「82年生まれ、キム・ジヨン」を書いたチョ・ナムジュであった。100万部を売った本だ。
「ヒョンナムオッパへ」も手紙体で書かれた文章であった。きりぎりす、僕の駄作との三作に共通しているのは主人公が女性であること、別れ話を題材にしていること、封建的な家父長制やミソジニーが透けて描かれていること。手紙は口語とも違う、誰かに読まれることを想定した特有のあざとさがある。だからこそ人にダイレクトに届きもする。他人に宛てた手紙をこっそり読む時のいたたまれなさといったら(広末涼子の手紙なんか)これ以上のものはない。ただ、ここでは文学として枠を持ち存在している、いわば他人が読むことを想定した手紙である。完全な第一人称で描かれるFPS小説の極致のようなもので、その文体には実際の人が手を動かすリズムや、感情に起因する衝動を理性で客観視しようとした試みが筆跡となって残っているように感じる。そう、普段は真っ平のはずの小説の紙に、手紙の文体は凸凹がある。ちょっと手垢の付いた色味がある。そういう小説だったと思う。

オッパという音が持っている響きが僕に「庇護」という言葉を想起させることがある。猫撫で声というのとも少し違って、皮の一枚中側、その全てを男性側に投げ出す気概のある、全幅の信頼を秘めた声(ただしどうしてか空っぽでもある!)に聞こえる時がある。女性の動物として強いな、と思ってしまうことがある。それが正しいのか、いけないことなのかは分からない。もしかしたらとんでもなくいけないことで、芸能人だったらテレビから消されてしまうようなことなのかもしれない。
封建的な制度に疑問を持たず、子どもを授かり、夫の帰りを待つ、それを幸せと思えることが何も間違っていないことを忘れてはいけない。ただし、一歩引いてみればそれがすごく危うくて脆くて、ジェンガのように一本でも引っこ抜いて仕舞えば全部崩れてしまう可能性のあるものだということも忘れてはいけないと思う。ちょうど良いところは人によってばらばらなのだということ。暖房を人によっちゃ23℃にしたり20℃にしたりする。「(社会的に)26℃はどうなんだ?高すぎないか?」みたいな漠然としたラインをみんな無いような顔をして、うまくやっている人はうまくやっている。僕は、もう少し勉強をしなければならないなあ、と思う。

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