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Into A Circle

I
 ある穏やかな平日のお昼過ぎ、誰もがそれについて考えを止めた一瞬の隙を狙ったかのように、大きな、それは大きな地震がある海岸で起こった。大地が揺れ、波が押し寄せ町を襲った。つながっていたものが、つながったままで濁流の中に飲み込まれた。そこに声はなかった。
 その三日後、その国の都市部では電力需給の厳しさを鑑みて計画停電が実施された。それからしばらくの間、その国の都市部は夜中光を失い、影を失った。そこには闇だけがぼんやりと、そしてずっしりと重みを持ってあった。シンボルマークである赤いタワーもすっかり暗闇に隠れてしまっていた。
 そこにあったものが忽ち見えなくなり、そこに無かったはずのものにつまづいて転んだ。信号の灯らない交差点、ある人は非日常に溶け込み、夜の闇の中を踊り歩いた。またある人は戦場から命からがら逃げ出す兵士のように走った。
 そんな夜でも生命のバトンは繋がれた。充分に電気の使えない手術室で産声をあげ、多くの大人たちを幸せにした赤子がいた。そこに居合わせたもの、居合わせなかったもの、そして、居合わせることの叶わなかったものー。そういうバトンの受け渡しが絶えずそこにあった。つながっていたものがつながったままで濁流の中に飲み込まれたその日でさえも。


 彼はその夜、はじめてその街の姿を目の当たりにした。静寂は彼の眠ったままの心を躍らせた。真っ暗な部屋でCDプレーヤーに電源を入れ(テレビのリモコンから電池を引っこ抜いた)次から次へと青年時代を彩ったヒット曲を流しては身を任せた。暗闇では誰もが瞬間的にその世界随一のダンサーだった。彼の中の何かが暗闇に呼応し、激しく共鳴した。
 誰の目にも写らないことはそのままにしておいてみること、フィルムカメラのシャッターが降りない時間には降ろすべきではないこと。それらは実感として彼に迫り、誰かに抱擁された時のような穏やかな気持ちを彼に起こさせた。
 暗いことは神経質な彼にとって本来、眠るための最低条件であったが、その日は高なる胸をその寒々しいほどの暗さが鎮めることはついになかった。
 それからも彼はCDでヒット曲だけをかけて、ウイスキーをちびちびと飲みながら歌詞カードやライナーノーツを読んで過ごした。部屋には不思議と一体感が生まれ、椅子と床、本棚と電子レンジとが暗闇の中、同じ音に耳を傾けていた。
 それらのCDの中に一枚、彼の記憶の抽斗を荒々しく開けて中をがさごそと探ろうとするものがあった。神秘的で、甘美で、示唆的なその歌詞がかつての友を思い起こさせた。


 彼女はその日、絶望の淵でこの世界の隅っこにいた。四方が暗く、バランスを崩せば落っこちてしまうタイル一枚の上に座っている心地だった。
 地震のあった地域の沿岸にいるはずの夫と連絡が取れないでいる。その事実が彼女のところへふらふらと飛んできては彼女の肉体を啄んだ。食品メーカーに勤める夫がその地域の水産加工工場の本格的なIT運用の導入部隊に抜擢され、一年間の単身赴任へと繰り出したのはほんの2月前だった。
 ひとしきり泣いた後で雨が上がった。渇くことを知らない涙が流れることをやめると、彼への思いまでがちぎれてしまいそうで怖かった。食欲を思い出してカップ麺をスープまで飲み尽くし、一息ついた。
 夕方、雨が上がって澄んだ空に明るい月が出た。家の前の公園では木がさわさわと音を立てた。こんなに暗い夜でも枝には葉がついていたし、幹は強固な根を張っていた。月の明るさに照らされた真っ暗な街を見渡して、外へ出ようと思う。当てもなく手を動かし、足取りを進めた。ふと光の灯らない間、電柱は何をしているのだろうかと可笑しくなったりした。駅までの道をほとんど無意識に夢遊の心地で歩く。光が無ければ、覚えることも、歩くこともなかったはずの道で、無防備なスウェットの格好して歩いている。曲がり角の目印だったコンビニは暗くてついに気付かず、いつもと違う道を通って駅へ向かう。通ったことはあるはずなのに、真新しい装いの道は気取っていて、歩くリズムと馴染まなかった。頬はぱりっと乾いていて夜風に撫でられると居心地が悪そうにしている。彼と訪れた本屋、スーパー、商店街も今宵は鳴りを潜め、出どころを窺っているようだ。
 彼と数えきれぬほど歩いた商店街で、ふと前を歩くカップルの背中が目に入る。50m先の二人には永遠に追いつかない気がする。街灯の灯らない道で、ほんのり光を放っている二人。時々、鼻と鼻がひっつくくらいの距離で笑い、時々、手を繋いだままの二人の最大限離れられる距離を保って歩いたりする。闇に溶け込む二人は、周りが闇だと気付かない。
 二人は彗星のように細くて鋭い煌めきを発してこの長い夜をどこまでいくのだろうかー。ふとそんな考えが彼女に浮かぶと、彼女の目には涙がこみ上げてきた。そして同時に、光が失われてはじめて、全ての背反すると思われるものが、本来は地続きのものだということを彼女に悟らせた。光や闇、生きることや死んでしまうこと。愛することや愛されること、それから憎まれることも。その全てが一枚岩になっていることに。



 彼の手にしたCDはあるアーティストの1stアルバムだった。その歌詞カードに書かれたアーティスト本人によるライナーノーツには次のことが書かれていた。


"どうかこのレコードが自由と希望のレコードでありますように"


 その言葉は彼の心を確かに震わせた。不自由と絶望に直面した世界でそれほどに真っ直ぐ言葉に祈りを込められることに感服した。
 そのCDの中には13分を超える曲がある。アーティストが「このCDを買った中で最も忙しい人でも、どうか13分半だけ時間をつくってくれて、歌詞カードを見ながら聴いてくれますように。」と語った曲だ。彼はその曲にたどり着くまで一曲一曲歌詞カードを見ながら、その心地よいリズムと美しい調べに身を委ね、演奏に酔いしれた。最高のポップソングが顔を並べていた。それらの歌詞は春の花の蜜のような甘さを持ち、また時には思いがけず放たれた心ない言葉の持つ殺傷性を持っていた。強烈なイメージを伴う表現と、聴く人の心象世界に委ねられた表現とがあった。そうした歌詞の間には行間が存在した。
 彼は普遍的と思えるものが、形のあるものであれば無条件に音もなく失われるという悲劇をその三日間、繰り返し、再三目に焼き付けられていた。その冷たい夜に、だから、神様を信じることは強さだと、それが生きることを諦めないためには必要だと、よすがになりうるのだと説く歌詞に、心の重い扉が開け放たれた。
 彼には中高のほとんどの時間を共に過ごした親友がいた。二人はその時代に見た・感じた全てのサリエンシーを共有し合った。おもしろいと思うことを同じようにおもしろく思い、心の動きは同じペースを保った。青年時代には誰しもある種の求心力に強く吸い込まれる。それは刹那であるから美しい。大学で進路を別にしても、こまめに連絡を取り合い大学が休みに入ると二人は顔を合わせた。
 大学二年の年の瀬、親友はある一通のメールをよこしてそれから彼の目の前に姿を表すことはなかった。

 「僕はこれからモータムゲルデンに入る。そこに入ればこの世はもっと光あふれるものになるんだ。また時間ができたら連絡するよ」

 親友は大学二年の春に新興宗教団体に入ったらしかった。大学のサークルの様相をした団体の彼らは優しく、強引ではない勧誘で親友の心を奪った。親友は瞬間的に何かに強く心酔するところがあり、その熱はいつだって誰にも冷やせなかった。
 二年生のゴールデンウィークに一度顔を突き合わせた時、既に説得の余地は残されていなかった。団体の原理原則や信条はゆっくり時間をかけて親友の繊細な心と丈夫な身体にしっかりと伝導していた。(彼の信じる神を他の誰かにどう「説得」できるというのだ?)
 親友は彼にも話を持ちかけるようになっていた。彼はそのことに些かショックを受けたのと同時に、親友ののめり込みぶりにはいつも偽りのなかったことを諦めの気持ちを伴って思い出していた。
 ゴールデンウィーク以降、彼との連絡は滞って疎遠になってしまった。あまりに急激に。頭で考える彼についてのことと、潜在的に彼を遠ざける気持ちには大きな隔たりがあった。ただ、いつも心のどこかでは平穏のままでありますように、ということや、大学を卒業する頃には元の親友に戻っていますように、ということを祈っていた。そしてその祈りも虚しく、年の瀬、あのメールが届いた。
 後から聞いた話では、彼は団体の幹部にまで上り詰めた後、団体の100人を超えるメンバーが全会一致で推薦され、(その頃、その団体は驚くほどに勢力を拡大していた。)モータムゲルデンに入ったらしい。それはその団体にとって最も誇らしく、偉大なことらしかった。彼には何も分からなかった。分かっていたのは、敬虔さのようなものが親友の持ち合わせた元来の特質だということだけだった。光を求めた彼は、自らが閃光のように輝くべき二〇代前半にしてどこかへ消えた。団体は程なくして解体され、幹部の何人かが刑務所に収容されることになった。
 親友がこの世からいなくなったことを親友の両親から聞いた時、(団体側は彼の死体の在処を決して両親に口を割らなかった。)彼の心の方位磁針は指し示す方向に困ったように忙しなく振動した。考えられたことといえば、「死ぬことが恐れることでなくなった人に何が言えたのだろう?」ということだけだった。後悔や憎悪などという感情は、実際的で現実的な時だけに湧き上がる感情だと知った。彼はその時、もうこれ以上親友のことを考えないようにと、親友との全てを箱に詰めて蓋をし、鍵を閉め、そのまま鍵を暗い夜の海へ放り投げてしまった。


 今、静まり返ったこの街の、誰の目にも届かない部屋が、その全体が、一つの音、そして次に鳴るその音に、耳を澄ませている。優美な音符の連なりは、部屋と部屋とが境界を失い、全てが果てしなくつながるようなイメージを想起させる。部屋と部屋、建物と建物、街路樹や静まり返ったショッピングモール。そうした街全体が満天の星の下、13分半の演奏に没している。ある部屋では恋人同士がハグをし、短いキスをする。指の形や長さ、太ももの太さ比べをして、それからくすぐり合ってお互いを確かめ合う。お互いの顔が見える距離で、今宵ばかりは見えない顔を想像する。首筋になまぬるい吐息を感じながら、闇の中に溶け込んでいる。そこに愛はなく、憎しみもない。あるのは形のない、そして言葉の立ち入る余地のない心の動きだけだ。
 彼は暗闇の中、部屋を訪れた親友と久しぶりに語り合っていた。最近観た映画について、面白かったバラエティ番組について。それからこの間ふと見かけた魅力的な女の子について。中学生の頃のように脈絡も無く、話は飛び飛びになった。心を分かち合ったものにしか許されない、話が地滑りしていく時の心地良さを感じた。相槌や反応がカチッと噛み合わさった会話は確かに彼と親友のそれだった。親友はそれから13分半の歌に身を任せ踊った。彼もまた踊った。ひどい踊りだった。
 曲が終わってしまうと再び静寂の織りなすただの暗い部屋に、彼は独りだった。
 やがて陽が昇り、彼の部屋にも光が届く。彼はCDプレーヤーの電池を抜き、元あった場所にCDを整頓する。コップに残ったウイスキーを飲み干して、それからはじめて大学二年のあの夏をほんの少し後悔する。カーテンの隙間から波打つ光が入り込み、豊かな情景を思い起こさせる。今この街に、今この瞬間だけを照らす光がさし込んだ。


 朝まで歩き続けた彼女は、大きな駅に着いた。それからまるでそうするために歩いていたかのように彼のいる町までの新幹線のチケットを買った。スウェットのまま、持っていたお金のほとんどを使って。
 高速移動を続ける新幹線の中ではしばらく身体を休めることができた。途中、ふと眠りから覚めて目を開けると、列車は太く大きな川を渡っているところだった。水面は太陽の光を浴びて波が踊り、鳥がそのぎりぎりを飛行した。車両の後方では赤子の泣く声がした。川を渡り終わる頃、彼女を憩いへと誘う甘い風が心を吹き抜けた。気がつくと彼女はまた眠っていた。

 彼女は駅に着くと、駅前のロータリーでタクシーに乗った。運転手はバックミラー越しに彼女のスウェットと乱れた髪を怪訝そうな顔で見た。
 それから彼女は「海まで」と行き先を短く告げる。運転手は「余震もあるし、危険だよ」と抑揚のない訛った声で言う。彼女は思う。彼はここにいる、と。彼のいる場所ではこれまで危険なことなんて何一つなかった。心がどこまでも安らぐから、彼女は彼を選んだのだった。若かりし頃に追い求めていた荒々しさや快活さを纏った幾人かの彼は、彼女にはついていくのがやっとだった。その背中を見逃さないようにすることで手一杯だった。そのことに気付いて、彼と出会った頃は、彼女の周りは既に結婚や、中には一回目の出産を終えたものも現れ始めている頃だった。
 タクシーは海へ、真っ直ぐに進む。彼女は彼の見たであろう景色をしっかりと目に焼き付ける。大通り沿いのファストフード、薬局、錆びついた歩道橋を跳ねるランドセル。やがてタクシーは山へ入り、谷を越えて開けたところへ出た。タクシーの運転手はその間も、安全運転のことだけを考えていた。彼の実直な勤務態度は社内でも指折りだった。
 タクシーが海に近付くと、木片や鉄片のようなものが車道の脇に固められて点在していた。彼女はタクシーを降り、(ここで彼女の持ち金は尽きた)海へと続く道を歩いた。建物の中が空洞になっていたり、骨組みがむき出しになっていたりした。四階くらいの高さまでが茶色く染まった建物もあった。海が見えると、彼女は駆けていった。誰かの誕生日にケーキを囲む色褪せた家族写真や、キーホルダーの付いたどこかの鍵、キャラクターの描かれた水筒。それらが灰色に濁った砂の間から顔を覗かせていた。
 それまで追い風だった風が、突然ぱたりと止み、凪が訪れた。彼女はその時まるで啓示を受け取ったかのように彼の所在を悟った。それはあまりに自然なことに思えた。彼女は、凪のベールに覆われていた。それから、彼の少し男の子っぽい耳の裏の匂いだとか、彼の温かい目配せの後に心に残る哀しい気持ちとか、何度も二人で繰り返し観たのに、毎回彼が涙するシーンがあること、それについて何度も笑い合った記憶だとか、そういったものに包まれた。どこまでも静かな海の中に、轟音が鳴っていた。
 雨が降って、川を流れ、海に流れ着く。その永遠とも思える途方もないサークルの中に、彼女は居た。そしてまた彼も。そうした定められたルールを適切に把握し、従うことは彼の得意とすることだった。彼女は海辺に落ちた貝殻の中で特に真っ白のものを三枚拾った。それをポケットにしまうと、そのまま陽が沈むのを見ていた。


 都市部にはそれから程なくして夜の光が戻った。夜の街は心細い闇の世界から逃げ込めるシェルターとして再生した。その一方で、闇を知った者で、その空間を愛重することを進んで行うものもいた。溶け込むという甘美な体験は人を魅了し続けた。

 時空は割れ目をつくり、人々は一体となって谷を越え、山を越えた。暗闇の中では生きた人も死んだ人も共に踊ることができた。見出せたものは光のあたる場所でシャーレに入れて具に調べる必要があったが、心の中に抱えておくだけで大きな力を持つ(それも実際的な力だ)物があることを人々に思い出させた。光のない場所には愛や憎しみもなく、ただ一つ一つ、心の動きがそれとしてあるだけだった。

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