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電話

 自宅で、震える手で受話器を握って女は電話の呼び出し音を聞いている。「どうして?」と女が思うのには理由があった。女がかけている相手は『昔の恋人』の家の電話番号。彼とは学生時代からの大恋愛の末、見事ゴ−ルイン。
 つまり、自分の家から彼女がかけているのは『自分の家』の電話番号なのである。彼の家の電話番号。恋人時代、何度もかけた番号。そらで覚えた番号。それが今の『自分』の自宅の番号になるなんて何て幸せ、と少なくとも最近までは、彼女はそう思っていた。
 ところが昨日、彼の長年の浮気の発覚。気づかなかった自分も莫迦だったと彼女は思ったが、後の祭り。夜通しの別れる、別れないの問答の末、結局彼はとりあえず、と会社に出て行った。一人取り残されて呆然とする彼女。気がつけば、受話器を握って、無意識にダイヤルを回す自分がいた。回し終わって、呼び出し音を聞いて、はたと我に返って受話器を戻して電話を切る。「やだ私、今自分ちの番号回さなかった?」と独り言を言って、自分に言い訳する。「そうよ私、あの頃、何かあればすぐ電話かけてたわ。」あの頃というのは恋人時代、なかなか逢えなかった二人をつなぐものは電話しかなかった、という頃である。あの頃はあんなに幸せだったのに。彼女はため息をつく。
 そして、彼女は一つの疑問に気づく。「あれ今かけた電話、呼び出し音が聞こえなかった?」子供でも判る事だけど、自分ちから自分ちに電話かけたら話し中になる筈よ。だってここからここにかけてるのに。でも、聞こえた。さっき確かに。ツ−ッツ−ッなんて音じゃなく。
 その疑惑を打ち消す為に、彼女はもう一度自分の家の電話番号を回す。ルルルという呼び出し音が聞こえてびくっとする。「どうして?」なにが起こった? 電話の故障? そして話は冒頭の一文に戻る。
 ずいぶん長い間、その音は鳴っている。女は考え出す。このままにしていれば誰かがこの電話に出るのかしら? そしてそれは、あの頃の彼じゃないのかしら? 信じていた夫の浮気のショックで女は少し狂っていたかもしれない。尋常でない事を考えながら、女はそのまま待ち続けた。居ないかもしれない誰かがその電話に出るまで。
 どれくらいたったか知れない。女は腕の疲れも知らずにいた。
 そして。「ガチャ」向こうが受話器を取る音。
 それから彼女は。

小1の時に小説家になりたいと夢みて早35年。創作から暫く遠ざかって居ましたが、或るきっかけで少しずつ夢に近づく為に頑張って居ます。等身大の判り易い文章を心がけて居ます。