パールピンクの月と指輪

 僕がはじめに香那子に出会ったのは、映画館だった。
 社会人三年目の僕は、だいぶ慣れてきた外回りの途中で、遅めのランチをすませた後だった。それでも、まだ先方の約束の時間には随分早いことを、くたびれた黒いベルトの腕時計の針は示していた。
「映画でも観るかな」独り言。ちょうど、学生の頃良く通った映画館がそこにはあった。
 そこは繁華街からは少し離れているせいか、リバイバルものとか、一昔前の流行りものとかをひっそりと上映することが多く、またそれほど会場が大きくないため、席数が限られていた。つまり余程好きな人しかあまり訪れない場所で、僕はそこで、他人に邪魔されずゆっくりと古めの映画を楽しむのが好きだった。
 映画なんて社会人になってからは一度も観てないな。学生結婚だった妻を、連れてきたりしたことなんてなかった。そういう感謝の示し方もあったなあ、そんなことも考えながら、僕はぼんやり映画館の外のウインドウを眺める。今日のメニューや宣伝のポスターがそこには並んでいる。僕が好きなのはちょっと地味めな邦画だ、あまり監督や俳優にもこだわりがない。好きなものは雰囲気で決めるたちだった。
「sakula-キコエマスカ」
 一面の青空の写真に、ゴシック体の横書きタイトル。シンプルなポスターだった。よし直感でこれにしよう、と思って、入り口の方に身体を向けたとき、僕は急に後ろから声をかけられた。それが香那子だったのだ。
「お兄さん、それ観るの? ワタシもご一緒して良いかなあ」
 大学生?若く見える彼女はウインドウの前に立つ僕の、右斜め後ろに自転車のハンドルを持ったまま立っていたのだ。「君は、いつからそこに?」
「ごめんね急に、この映画観たくって私。チケット二枚あるの。急に相手が都合わるくなっちゃって。よければご一緒していただけませんか?」
「もちろん、僕で良ければ」と僕は答えた。若い子に誘われるなんて久々のことだ。多少唐突だったが、この映画を観ようとしていたことは事実だし、久々の映画鑑賞、隣りにパートナーがいるのも悪くない。「なら良かった」と彼女は映画館の入り口近くに、自転車を停めた。
「君は学生、休みなの?」定番だがこれはかかせない、と上映時間前にポップコーンとコーラを買い込みながら僕は訊いた。
「あっ・・・と、僕は会社員で、営業の途中でね」そこまで言うと香那子は「そんな格好してこんな時間に、ここにいるんだから判るよ」と笑った。僕は自分の出で立ちを見直してうなずいた。スーツにネクタイ、黒鞄。「ああ、そうか」そのまま僕は言葉を続けた。
「僕は世戸っていうんだ、外回りの時間待ちで。この映画館は昔よく通ってた」初めて会ったのに、つい言葉がぽんぽんと出てくる。そんな話しやすい雰囲気が僕等の間には流れていた。
 彼女は香那子と名乗った。社会人で、今日は休みなのと続けた。
 後ろよりの列の真ん中あたりの席に、二人で並んで座る。予想通り、平日のこの映画館の中は、ちらほらと人がいるだけだった。
 目の前の大画面はまだ次回上映予定のCMをやっていて、そこで僕はふと彼女に訊いてみた。
「この映画、観たかったって、好きな役者でも出演するの?」
 すると、ついさっきまで、次の映画の宣伝を見て、これはね評判はいいんだけどね、とかひとつひとつ説明していた彼女が不意に黙る。僕はそこで、さっき受付で手にしたこの映画のビラを見た。あまり有名どころではない役者の名が並んでいる。そこに数行で語られているストーリーは・・・予想通り恋愛もののようだけど? 彼女は画面を見つめたままだ。まあいいか、僕は何となくそれ以上は彼女に訊かなかった。
 少し時間をおいた後、彼女は画面に顔を向けたまま言った。
「うん、この映画ストーリーがね。ちょっと気になって」
 急に話しかけられて僕は彼女の横顔を見る。うん?あれ涙?
 それから間もなく、画面がお決まりのマークを映し出す、本篇が始まった。映画は、綺麗な情景の多い恋愛もので、若い大学生が主人公だった。
 失恋から始まるその物語に、僕は何故か親近感を覚えた。
 相手に別れの予感を感じさせないままに、別れを告げる男。それに心の準備が出来ない女。でも彼女はただ言うのだった。
 さよなら FALL IN LOVE
 今から  FALL IN LOVE
 キコエマスカ。
 若手の監督にしては、なかなかいい映像だな、僕はそう思って、つい存在を忘れていた、今日の突然のパートナーのほうにちらと目をやった。
 すると香那子は画面から目を離し、うつむいていた。僕は思わず気分でも悪いのかと、彼女の方を見やる。と、急に見てはいけないものを見た気がしてあわてて画面に視線を戻した。
 香那子は泣いていたのだ。
 さっきの涙はやはり見間違いではなかったのだ。
 そうか。僕はひとりで合点する。香那子は泣くために映画館へ、そして多分それは、一人ではどうもさみしくて。
 僕はそのまま香那子のことが気になって、それからの映画の内容がうまくは頭に入らなかった。そうしてスクリーンが切ないエンドロールを迎え、会場がぼんやり明るくなるとそこで僕ははっとする。
「…いい映画だったね」僕は隣の香那子に声をかけた。
 彼女は泣き顔のまま顔をあげる。ラストの、主人公が彼を追いかけるシーンから泣き通しだったようだ。「うん、この映画にであえて良かった」
「ありがとね、つきあってくれて」香那子はぺこ、と頭を下げて、ロビーで「じゃあ」と言いかけた。
「…あ」僕はこのまま別れてしまって良いのか迷う。でもこちらに彼女を引き留める理由はないのだ。「なあに?」不思議そうに香那子はこちらを見た。
 でも次の取引先との約束の時間は、ついそこにせまっていた。
「いいや、うん。それじゃあね」
 心のこりを悟られないように、僕は香那子に手を振った。所詮僕はただのゆきずりだ。なにかあったの?なんておせっかいでしかない、他人の僕が首を突っ込まない方がいいのだ。そう、自分に言い聞かせながら、いつもの仕事の頭に切り換えることにした。
「じゃあね、世戸さん」香那子は僕の名前を最後に一度だけ言って、くるりと向きを変え、ひらりと自転車に乗って目の前から去った。
 僕は彼女のことが気になりつつも、僕にはどうしようもできないことに気づいた。
 女の子の泣く理由なんて、ひとつしかないようでいくつもある。それをかぎつけられたくないから、香那子はひとりで映画館にやっって来たんだ。
「いや待てよ」相手が都合悪くなって…とか言っていたな。じゃあその相手と観たかった映画だったってことか。
 僕は勝手にひとり想像を巡らせたが、それは想像の域を超えることはないので、もちろん明確な答えは得られなかった。
 もう一度、あえたら。僕は五、六歳も離れているであろう、たった一度しか会ったことのない香那子のことが気になってしょうがなかった。それは、恋とかとはちょっと違う、ただ世話の焼ける妹を持ったような、そんな不思議な気分。
 次に香那子に偶然巡りあえたのは、はじめてあったときから一ヶ月経った、夕方のファーストフードの店内だった。神様とはいるものだ、香那子のことを気にしていたら彼女にほんとに会えるなんて。
「世戸さんだよね?偶然、すごーい」たった一度しか会ったことのない僕の顔を、香那子はしっかり覚えてくれていて、会計の後ろの方で順番待ちをする僕を自分の列に招き入れた。
「一緒に頼もうよ、そのほうが早いよ」僕はお言葉に甘え、彼女の頼むセットに便乗した。
「ありがと。ねえ君今日も休み?」彼女に会えたのは、平日の、遅めのランチにしようと思い、入ったところだった。「私の仕事ね、不規則なの」と財布からお金を出して彼女は笑った。
「あの時の映画館では失礼しました、私ね、後で思ったんだ。けっこう急で失礼だったかな?って」香那子は店の地下に降りて、一番隅っこの席についていちばんに言った。「だっていきなり背中から声をかけて、映画一緒に観ない?だもんねえ、男女逆なら今のご時世アブない感じだよねぇ」
 あの日の自分の行動を、自ら茶化して笑う香那子を、僕は素直に可愛いと思った。
「いやいや、僕も余程ぼーっとしていて、声かけやすかったんだろうなって」僕はかしゃかしゃと音を立てて、ホットサンドの包みを開けた。
 そうだ、尋ねてみるんだ。ずっと気になっていたことを。僕は秘かに決心する。 
 あの時どうして泣いていたの?と。僕はずっと気になっていたのだ。
「あのね、あの時君・・・」「あのね世戸さん、私あの日」
 二人で同時に言葉を言いかけたことを察して、僕は自分の言葉を途中で止める。「あ。ごめん何?」「いいよ、君からで」そして僕は彼女に言葉を譲る。
 うん、と左手に持ったバニラシェイクを少し飲んで、香那子はあの日のことを話し始めた。
 あの日ね彼氏と別れたんだ、映画にね、一緒に行きたかった相手はその彼氏。
 実はね、私けっこう気づいていたの。あの映画の主人公は気づいていなかったけどね。私はこのひとと別れたくないけど、もうすぐ別れることになるようなそんな予感。でも私、気づかないふりしていた。それでも・・・ううん、だからそんな私の気持ちに気づいて欲しくて、あの映画を一緒に観に行こうとしてたんだ。
 でもだめね。映画の上映時間の、そのちょうど一時間前にゲームオーバー。
 明日からは別々の道。ってそんな突然心の準備が出来ない。
 別れの予感はしていても、心の準備は出来ていなかった。できっこないよ、だって私は別れたくないのに。ずっと一緒に居たいのに。 
 私ね、指輪がほしかったの。そう、世戸さんみたいな結婚指輪(ほんとうの)じゃなくても。それってティファニーじゃない?女の子の憧れだよね。
 そこまで話したところで、香那子は僕の左手に目をやった。妻のお気に入りだった指輪がそこにはあった。はずす機会を失って、そのままの指輪が。
 香那子は続けた。
 指輪はね、私は普段つけないの。それでも指輪が欲しかった、それって約束の証拠みたいじゃない?だから、不確かな未来をほんのちょっとだけ確実にしてくれる、おもちゃみたいのでもいいから指輪が欲しかったの。でもけしてそれをくれない彼だったの。男のひとって皆そう?先のことは判らない、今が良ければそれでいいって。
 僕はふと我に返る。確かに、約束をほしがるのは女性のほうというイメージが強いかな。でも、このひとと決めた人と未来をきちんと約束して、一緒に生きていきたいと願うのは男性も女性も同じ気持ちの筈だ。僕がそのことを告げようか迷っていると、香那子はなおもそのまま続ける。
 皆そうなのかどうかはわかんないけど、約束も、それが口約束でさえも、そして指輪なんかももちろんくれない人だった。でも大好きだったの、今もほんとはあいたいの。
 でも。そこで彼女は一呼吸置いて、シェイクのカップを両手で持って、親指で押し、ぺこと鳴らした。
 別の人を好きな彼にはあえないの。私ではない人を好きな彼にはもう二度とあえないの。
 僕は、半分興味本位だったことを恥じた。
 今日の香那子からは、彼女のつらさが痛いほど伝わってきた。
 そして、思わず香那子の肩を抱きそうになる自分がいた。
 でも彼女が必要としているのは他人の行きずりの僕の手では、ない。何よりもその彼の言葉、そして約束なのだろう。
 僕が香那子を救える訳ではないのだ。たとえ僕が何かをを告げたとしても、何が変わるわけでもない。
 だから僕はそのあと、香那子が言った「ごめんね遅くなって。奥さんが心配するね」との言葉に何も言えなかった。心配する奥さんなんて僕にはもう・・・。そんなことを告げても香那子の気持ちは何も変わらないと判っていたから。
 香那子の心の中にはその彼しかいないのだ、つらい別れから一ヶ月経った今でも。 香那子の言葉をひとつひとつ頭の中で並べて聞いて、僕は悔しい程そのことを痛感した。
 その後僕らは、昨日見たテレビだとか注目するお笑い芸人とか、他愛もない話ばかりしてランチタイムを過ごした。香那子は絶えず笑っていて、デザートを追加し「太るかも」と笑った。
 そして僕らがその店から出ると、外は夕焼け空が広がっていて、店と反対側の空には白く光る、三日月がすでにもう出ていた。
「綺麗な空ね」香那子が言った。「あのね、私いつもね、彼と離れたところにいてもこんな素敵な空を、月を見つけるとね」香那子はなんだか楽しそうだ。
「うん?」
「私はどこにいてもね、好きな彼に、今日は空を見ながら帰りましょうね、とメールをすることにしていたの」
 ああそうか。ここで初めて僕は気づく。どうして僕がはじめから香那子に惹かれたのか。僕たちがまだ学生の頃の、亡き妻の言葉を思い出す。
「夜空が綺麗ですよ、一緒に外に出て、同じ月を見ていましょう」
 遠く離れた場所で僕は、電話の向こうから妻のその言葉を聞いたのだ。つらい遠距離恋愛に耐えることが出来たのは、そんな繊細な彼女の優しさがあったからだ。それを聞いた僕はどんなに忙しくても、その言葉に素直に従いすぐに受話器を置いて、外に出たものだった。空には愛する彼女の居る処にも浮かんでいるであろう月。電話はすでにつながっていなくても、すぐそばに彼女がいるような、そんな不思議な感覚だったあの時、あの瞬間。今の香那子の言葉を聞いて、僕は学生時代のことを久々に思い出した。そんな彼女と同じ感性を持っていたのが、香那子だったのだ。
「ありがとう」僕は香那子に言った。
「なんで世戸さんが?ありがとうは私のほうだよ、たくさん聞いてくれてありがとね」香那子はそう言って、初めてあったあの日のように、くるりと僕に背を向けて、ひらりと自転車に乗って走り出した。
「ありがとう」僕はもう一度、その背中に向けてつぶやく。確かに僕の忘れかけていた何かを思い出させてくれたのは、香那子だ。
 はずせない結婚指輪。忘れることなどけして出来ない妻の顔が、思いに重なる。君が運んできた出会いなのか?
 空には、夕焼けに照らされてパールピンクの月が浮かんでいる。
 そんな春のある日の夜。

                  ♪sakula / NIRGILIS                      2007/3/23 1:04am
                   推敲2007/11/16 23:39pm

小1の時に小説家になりたいと夢みて早35年。創作から暫く遠ざかって居ましたが、或るきっかけで少しずつ夢に近づく為に頑張って居ます。等身大の判り易い文章を心がけて居ます。