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1.17 29年目 noteで語り部

育児について書いていますが、今日だけは。
普段、神戸弁でどんなに楽しく生きていても、今日だけは、この街の色んな所で多くの人が意識をしていて、静かな緊張感が漂っている、ような気がする。


当時まだ未就学児で、神戸の自宅で被災しました。
なんでだろうな、小学生から社会人になってすぐの頃くらいまで普通に友達とも地震の時は自分はこうだったと話せていたし言葉にできていたのですが、大人になると怖いものが増えてしまったのか、言葉にするのも怖いような。

神戸のかつての子どもたちは知っている人も多いと思うのですが、震災を子どもの目で見て残した作文集があります。学校に必ず置いてありました。

本は販売していないようですが、データはAmazonのページに書いてありますね。
今はこういったものが残ることは少なくなってきてしまっているかもしれません。

語り部が減ってきていると先日夕方の地元ニュースで見ました。
無理をしない範囲で残せたら。

その日

その日は親戚が家に泊まりに来ていて、家族が皆いつもとは違う場所で寝ていました。
寒くてトイレが近かった私は、自分が寝ていた寝室からリビングで寝ていた母を起こしては、3回だったかな、夜中にトイレに立っていました。

用を足して「おやすみ」「もうひと眠りしようね」とまだ暗い中布団に潜り込み、母がリビングのソファに向かって電気が消えて数秒後。

ゴゴゴゴゴ…ガラガラガラ

という音が聞こえ激しい揺れに見舞われました。
とっさに父の「地震だ!」「布団をかぶって!」という叫び声が聞こえて、布団を被ると「わぁーーー」という誰のものか分からない叫び声というか、声が聞こえてきてそのまま長い間揺れの中にいました。

目が回りそうでした。
何かがゴンっと音を立てました。ガチャガチャとした音も聞こえました。

どれだけ経ったか揺れが収まった瞬間、リビングにいる母からも「地震や」と聞こえてきました。

私はというと、地震というものは聞いたことはあったし、地震が来たら布団と机の下にもぐることも知っていましたが、こんなことは初めて。
幼稚園で読んだ「たつまき」に巻き込まれたのかと思いました。
そんな揺れでした。

オズの魔法使いのことでも想像していたんだと思います。
「たつまき?おうち折れたの?どこに着いたの?」と大人たちに聞いた覚えがあります。

揺れが収まって父が布団を飛び出し、テレビをつけようとするもつかない。
そして電気もつかない。
東向きの家が少し薄明るくなる頃にようやくラジオがついて、大人の男性の差し迫った声で難しい言葉と、自分達が住んでいる神戸や阪神や兵庫県といった言葉と、「ひがい」という言葉が聞こえてきたのはうっすらと覚えています。

「また揺れるかもしれないから布団にまだもぐってなさい」と親に言われて、布団にもぐったまま顔だけ出して回りを確認しました。
寝室の横のリビングの吊り電灯がありません。
母が寝ている場所の横に落っこちていました。

そこからどうしていたのかあまりはっきりと覚えていませんが、大人たちは私達に何枚も服を重ねて着せて、靴下をはかせてくれたこと、家を出ておそらく近所の人とでしょうか、やり取りをしては帰ってきたこと、親戚たちや仕事場に電話をかけていたこと、マンションの館内放送が流れていたことを覚えています。

すっかり日が昇ると、泊まっていた親戚と外に出る準備をして、エレベータが止まっていたので階段で降りて見送りました。親戚が住んでいる大阪の方が揺れが少なく、瓦が数枚落ちた程度だったと。

震災翌日からの生活

そこからは断片的な記憶ですが、数日の間は寝る時も普段着で寝ました。

また、ある時ガス漏れの知らせが入って近くの小学校の体育館にぬいぐるみ一つを持って避難しました。
幼稚園の友達もいて声をかけたりしましたが、遊んだりはできず、お互い疲れたような顔をしていたことや、自衛隊だったかな、ちくわを配給してくれたり、炊き出しのあったかいお味噌汁を頂いた記憶があります。

また、さらにそこからしばらくは祖父母の家や親戚の家を転々として、有馬の方にも行ったりして、家を離れて暮らしていました。
父は仕事が防災関連であったこともあり、一人家に残り、仕事の方に邁進していましたが、有難いことに祖父母や親戚や母が私達をかわいがってくれてさみしい思いはしなかったように思います。

しばらくして幼稚園が再開して、幸い皆無事に集まることができましたが、震災をきっかけに仲の良かった友人が引っ越してしまったりと、そういった面でのさみしさがありました。

結び

震災の時の、個人的な記録であり、大人ではないのでこれを経験したからどうだった、と感想を統合する術も持ち合わせていませんでしたし、ここまでの私の人生を通して何度も色んな思いをもたらした出来事でもあったので、結びとしては非常に緩いですがこの記事はここまで。

社会人になって神戸を離れて、他府県との震災や防災への意識や認識にギャップに初めて感じたこともあり、その年から追悼のつどいに参加するようになりました。それもまた残せたら。

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