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縄文海進の足跡が点在する貝塚|埼玉県富士見市 水子貝塚公園

今回、縄文時代の軌跡を訪ねてやってきたのは、
埼玉県富士見市の「水子貝塚公園」

都心からは約30㎞ほど、1番近い海は東京湾という立地です。
その海のない埼玉県の「貝塚」が今日の舞台。
今から数千年前のここでの生活はどんなものであったのでしょうか。

現在は公園となっている「水子貝塚」は、今から約5500年前(縄文時代早期)の集落があった場所です。
ここでは「縄文海進」によってすぐ近くまで海が迫っていた証拠がそこかしこに見られます。
東京湾が今よりずっと陸地まで入り込み埼玉県や栃木県まで海であった時代、ここはウオーターフロントの集落として賑わっていたようです。

「縄文海進」とは?

今から約7000年前頃、地球規模の温暖化の影響で気温は今よりも2〜3℃高くなり、南極の氷河が溶け出しました。その影響で海面は現在よりも4〜6mほど高くなり、日本列島の各地で「海が陸地奥深くへ入り込む現象」がおこったのです。これを「縄文海進」と呼びます。
やがて気温は寒冷化していき、約5,300年前頃から「海水面は徐々に低下(縄文海退)」していきます。弥生時代に入る頃には現在とほぼ同じぐらいになったと考えられています。

「縄文海進」の影響は…
食料の調達が主に狩猟採集だけであった生活から、海の魚や貝、さらに塩を豊富に手にすることができるようなりました。日々の食料や保存食の確保がしやすくなり、それによって食生活が向上、健康的な生活が送れるようになったと考えられています。
健康的な生活は子どもの誕生と成長にも結びつき、人口が増え、やがて集落へと発展したと思われます。

こうして発展した集落の跡である「水子貝塚」は、常時5~10軒ほどの竪穴住居があったと推測されています。時代を通しての竪穴住居の総数は100件を超えることから、この地域の拠点的な集落=地域の中心地でがあったと考えられるようです。


あちらこちらに点在する貝塚

公園を見廻してみると、いくつもの白い小さなタイルが貼られている箇所が目立ちます。奇麗な円形や楕円形…、形・大きさは様々のようです。

実はこれは貝塚の跡。
直径160mの環状(ドーナツ状)に60ヶ所の貝塚の跡があるといいます。
一般的にイメージする大きな貝塚とは随分違うようです。

点在する貝塚は「地点貝塚(小貝塚)」と呼ばれるもので、使われなくなった住居跡をゴミ捨て場にしたことによって作られました。

古くなり使えなくなった住居をゴミ捨て場にして、そのすぐ隣に新たな住居を作る…そんなことを繰り返しているうちに、住居とゴミ捨て場(貝塚)が大きな環状(ドーナツ状)の形に並んでいったようです。

因みに一般的な「貝塚」は、集落のか所の特定の場所(窪地など)に作られ、長年の廃棄物によって何メートルもの層ができることが多いようです。

住居とゴミ捨て場が隣合う…今では好ましいようには思えませんが、この時代のゴミ捨て場は「単にいらなくなったものを捨てる場所ではなかった」と考えられています。

それを知るには貝塚の中にヒントがあるようですが、その前に当時の暮らしの様子を覗いてみましょう。

竪穴住居の生活は?

数件の当時の竪穴住居が復元されています。
その1つが解放されているので見てみましょう。

竪穴住居を外から見ると、大きな屋根で覆われて壁はありません。窓もなく、出入り口は一カ所…この形は「寒さや暑さを避ける」ため、または貴重な「木材などを節約する」ために考えられたとも言われています。洞窟や岩場で暮らしてきた経験を生かしているようにも思えますね。

その彼らの知恵はこんな所にも見られます。
「竪穴住居」は地面を30~40㎝掘り下げて作られ、言わば「半地下のような構造」になっています。一年を通して室内の温度はある程度一定に保ち、風の影響も抑えていました。

それでは、中へとおじゃましましょう…
結構広い!この住居は約30畳のワンルームで、当時の家としてはやや広かったようです。家の奥には炉があり、その上には魚がいぶされて保存食となるようです。

子ども達はふざけ合い、赤ちゃんはようやくお座りができるようになった齢でしょうか。炉で手慣れた様子で料理をしているのは若いおばあちゃん?釣りに行くお父さんが憮然としているのは「いってらっしい」の見送りがないからかしら…と勝手に想像してしまいます。

「狩りの道具」を置く場所もあります。
生活の糧となる大事な仕事道具です。子どもたちが触ったりして怒られたり…目に浮かんできますね。
「動物の毛皮」は冬の必需品、大きな動物を射止めることは食料としてだけでなく、冬服を確保する意味でも重要であったことでしょう。

貝塚の中には何がある?

次に公園内の水子貝塚展示室へ、貝塚の再現を見に行きましょう。
「貝塚」の中には貝は勿論、動物の骨などあらゆるものが埋まっています。
縄文人にとってのゴミ捨て場は…
全ては神からいただいたもの、役目を終えたものは神に返し、そして再生を祈る
こんな考えのもとに利用していたようです。

15号住居跡

その証拠に「亡くなった人を葬る場所」でもありました。狩猟のパートナーであった犬も(右の丸い穴の中で)眠っています。

ここに葬られていたのは、身長約140㎝の30歳位の女性です。
頭蓋骨から想像された写真がその彼女。
何千年前に実際に彼女がここで暮らしていたかと思うと…とても不思議な感じがします。

彼女の想像写真

ここで使われていた道具類

そしてこの住居から見つかった土器が公園内の水子貝塚資料館で見られます。
この土器で彼女が魚や貝を調理していたのかもしれませんね。大小の薄手の深鉢は使いやすそうです。

15号住居跡からの出土品

調理や狩りに使ったと思われる道具類。
奇麗に研磨された石の斧や矢じり…お手入れも大事な仕事であったことでしょう。

15号住居跡からの出土品

祈りの道具は?

この住居からは上記のような土器や狩りの道具などの実用品が多く見つかっていますが、祈りの道具のようなものは見当たりません。

全国的にも土偶や顔面把手などの祈りの道具が多く作られたのは、約5000年ほど前の縄文時代中期になってから。それと同調するように、縄文時代中期以降の周辺の貝塚からは土偶や顔面把手が出土しています。

「水子貝塚」では祈りの道具と言った精神性を帯びた道具は見られませんでしたが、点在する住居に隣合う「地点貝塚」から彼らの精神世界を少し覗くことができたように思えます。
「人もモノもいただきもの、役目を果たした後は大切にお返しする」…そのような思いで日々を過ごしていたのかもしれない…と。

この「水子貝塚」が発見され、度重なる調査の後に公園と整備されてからもうすぐ30年。水子貝塚展示館の方のお話では、未だ分からないことが多いこの貝塚やその時代を調べるために、再調査することが検討されているそうです。
新たな事実が分かる日も近いかもしれませんね。

*参考資料
水子貝塚 パンフレット
縄文時代の不思議と謎 山田康弘 実業之本社

最後までお読みいただき有難うございました☆

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