『九州の土偶さん、初めまして!』断絶された九州の土偶文化
日本列島の縄文時代を追いかけて…
今回は南の縄文土偶に会いに、宮崎県西都市の西都原考古博物館で開催された【縄文の美と土偶の美】展へ行ってきました。
西都市の古墳群が凄い!
宮崎県のほぼ中央に位置する西都市。ここには日本最大級の古墳群「西都原古墳群」があります。
標高約70mの台地に点在するのは、3世紀末から7世紀にかけて築造された大小300基以上もの古墳です。
写真にあるような円墳286基のほか、前方後円墳31基、方墳2基からなる古墳群。
その古墳群の中にあるのが「西都原考古博物館」。この古墳群をはじめ、南九州の旧石器時代から古墳時代の遺物の収蔵・展示がされています。
展示室は穏やかなスロープを下った地下の空間。
まるで古墳の中へ導かれるような室内は、膨大な展示物と五感に訴える数々の演出があり、あっという間に古代ロマンの世界へ導かれてしまいます。
「縄文の美と土偶の美」展とは
展示室の一角に企画展のブースがあります。(展覧会は8日で終了しています)
本展覧会は、東日本で多く出土する縄文の遺物と、あまり知られていない九州の土偶などから、その造形の美しさと縄文社会の広い交流を見ていくというものです。
東日本の遺物の代表として、東北地方の遮光器土偶や土製品、ヒスイなどの装飾品が展示され、東日本での縄文文化の繁栄を大まかに知ることができます。
九州の土偶たち
『九州最古の土偶』
鹿児島県の上野原遺跡から出土した高さ5.5㎝の土偶です。今から約7.500年前の縄文時代の早期後半に作られました。
三角の突起で表した頭と両腕、小さな乳房、細い横線で肋骨を表現した女性の上半身像は、驚くべきことに同じ頃に作られた青森県の土偶と同じ様相をしています。
ところがこの最古の土偶が作られた後、九州の土偶文化は途絶えてしまいます。
再び土偶が登場するのは、およそ3000年後の今から約4000年前の縄文時代後期。東日本や西日本の土偶文化が九州に広く伝わったことにより再び始まります。
『分銅形土偶』
本来は頭、手足を省略した形で関西地方以西で作られた土偶です。九州では体の上半分が「顔」に変化しています。
『具象型の土偶』
手足があり動きを感じられる土偶も作られました。顔の表現のないもの、あるものがあり、土偶の波及とその土地ごとの文化の違いがうかがえるようです。
顔の表現のある土偶は、控えめながら線を刻んだり、口や耳飾りが孔で表現されています。
九州南部の岩偶
縄文時代後期の九州南部では岩偶が多く作られました。北陸や東海地方の岩偶との関係が考えられています。
これらの岩偶には2つのタイプがあり、1つは「軽石製」の岩偶です。
小判のような形に線状の刻みや孔で、体や顔を表しています。
さらに削り、頭部や手足などの部位を作り出しているタイプも見られます。
大きさは約10~15㎝が多いことなどから、手に持つ岩偶であったと考えられています。
もう一つのタイプは「砂岩」などで出来た球形や三角錐状の岩偶です。
線状の刻みの僅かな凸凹で顔を表現しています。
左2つはどうにか人形であるとわかるような造作で、東海地方の岩偶との関係が考えられています。
噴火が変えた九州の縄文文化
九州地方に土偶のイメージは殆どありませんんが、土偶と岩偶を合わせ127遺跡から711点もが出土しています。そのほとんどが縄文時代の終わりの頃(後期~晩期)に作られたものです。
前述のように、既に縄文時代の早期に鹿児島県では土偶が作られていましたが、それから暫くの間土偶の姿は見られなくなります。
最古の土偶が作られた頃の鹿児島県は、人口も多く、たくさんの集落が存在し繁栄していました。そこでは多様な土器や耳飾りなどが作られ、独自の縄文文化が育まれていました。
しかし、その文化にストップがかかったのです。
約7300年前の「鬼界カルデラの噴火」
鬼界カルデラは薩摩半島の沖合にある火山活動で生まれた窪地で、現在も活発に活動しています。
約7300年前に大噴火し、四国から西に多くの被害をもたらした考えられています。
火山の噴火により降り積もった「アカホヤ火山灰」により、南九州では多くの縄文人が亡くなり森の植生や海の生態系が変わってしまった、と言われています。
噴火によって断絶された九州の縄文社会。それから長い長い時を経て、東から波及してきた土偶文化をようやく根付かせたのが、縄文時代の終わりの頃と考えられるようです。
九州独自の土偶文化は、その背景と共に大変興味深いものでした。
天災によって一度は途絶えた文化が、残された人々によって再び始まる…まるで壮大なドラマを見ているかのようです。
*参考資料
「縄文の美と土偶の美」展図録
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最後までお読みくださり有難うございました。