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今日会いに行きたい!気になる土偶#007東京国立博物館

一目見たら忘れられない、印象的な雰囲気。
広い肩幅、厚い胸は、まるでアメフトの選手のようです。
これは土偶ではなく、で作られた岩偶がんぐうです。

縄文時代の人形ひとがたの焼きものと言えば土偶が一般的ですが、このような岩で作られた岩偶や、シカの角で作った角偶かくぐうなども存在しています。
けれども角偶は土中で分解されて残りにくいため、発見数は少ないそうです。

どちらも土偶と同じように、祈りの道具であったと考えられています。

この岩偶の小さな顔には、遮光器土偶のような目があり、大きな体は、渦巻文様で埋め尽くされています。

その渦巻が、隣にある岩で作られた岩版がんばんにもあります。
この二つは、その渦巻文様だけでなく色や仕上がり具合までもが、まるでお揃いのように似ており、二つともが同一人物の作品のようにも思えます。

岩版もまた土版のように、
祈りの道具であったとされています。
東京国立博物館蔵

岩偶は青森県南部町から出土、
岩版は秋田県三郷町から出土、
同じ東北地方とはいえ、その直線距離は約130キロメートル。
共通するのは作られたのが、縄文時代晩期という時代だけです。

途中に険しい山が連なる地域ゆえに、
人の足で移動するには、相当な時間がかかったと思われます。
一人の人が移動したのでしょうか。それとも、技術が人伝に伝わったのでしょうか。

土偶は縄文時代の中期に最盛期をむかえ、その後は徐々に少なくなっていき、縄文晩期には殆ど作られなくなります。そして弥生時代になると祈りのための土偶は作られなくなりました。
土偶が作られなくなった理由の一つとして、「縄文人の精神世界が少しづつ変化し〝祈り〟の形にも変化があった」という見方があります。

そうであれば何故、あえて土偶よりも作るのが大変そうな岩偶が作られたのでしょうか?

金属が存在していない縄文時代に、硬い岩を削って細かい成形や渦巻文様を施すのは並大抵のことではなかったはずです。
貴重品であった美しい黒曜石や水晶をナイフやノミのように使ったとしたら、「とても大切な意味のあるものであった」と言えるかもしれませんね。

それにしても、全身像もアメフトの選手のようであったのでしょうか。
重そうな体を支えることのできる、ガッチリした頑丈そうな下半身を想像してしまいますね。

最後まで読んでいただき有難うございました☆彡


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