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人はいつになったら楽になれるのか?

20歳。これまでの人生を振り返ると、常に「今ここにはない何か」を求めてきたような気がする。


部活をやりながら高校受験にむけて一生懸命勉強した中学時代。スパルタな塾に入り、猛勉強した。高校受験を乗り越えさえすれば、すべてから解放される、そんな気持ちを抱いていた。


高校時代も、中学時代同様、部活と勉強に励んでいたように思う。周りに置いて行かれないように必死で、大学受験に向けて勉強した。この際も、大学受験さえ乗り越えれば、という感覚を持っていた。実際、大学生は華やかで自由なイメージがあったし、今までの喧騒から放たれるような気がしていた。



では大学生の現在はどうか。結局、緊張感のある毎日を過ごしている。大学で体育会のサッカー部に入っている(入ってしまった)ので、一日のほとんどはサッカーのことを考えて生活している。練習時間は限られていても、その日の練習の振り返りや、ケアや休息の時間を考えると一日のうちサッカーが占める割合は大きい。



毎日が最高に充実していると思う。自分が緊張しいなのか、はたまた真面目すぎるのか、毎日の練習には緊張感をもって臨む。気持ちが乗らない日でも、「この練習の時間だけは」と、気持ちをつくって挑む。本気で取り組んでいるからこそ、理想のプレーができたときはとてつもない喜びを感じるし、上手くいかないときはひどく落ちこむ。そして、そんな自分の生活にどうしようもなく疲れたりする。



家族と話す際、「人生の中で、今が一番しんどいと思う」と口にすることがある。サラリーマンの父親には口が裂けても言えないが、「社会人の方が楽なのではないか」などとさえ考えている。大学サッカーを引退する際は最高の気分なんだろうな、なんて考えたりしている。



苦しいのは自分だけなのか。もがいているのは自分だけなのか。体育会サッカー部に入らず、サークル、バイト、女、お酒で大学生活を回している世界線の自分は果たして幸せなのか。





おそらくこたえはNo。





僕には男女問わず密に連絡を取り合う友達が一定数いる。僕とは違ったライフスタイルを送っている人がほとんどであり、僕にとっては、「大学で体育会サッカー部に入らなかった世界線」を過ごす人たちである。





その僕の友達が最高にハッピーな毎日を過ごしているのかといえば、きっとそんなことはない。バイト先の人間関係や、恋人とのいざこざ、もっと小さなことで言うと、朝決めた時間に起きられなかったことや予定していた資格試験の勉強をこなせなかったことなど、皆、一喜一憂している。皆、もがきながら毎日を生きている。




結局、人は今の自分にないものを探し求めてしまうのだ。ないものねだりというやつ。何か欠けていると感じる「今」に折り合いをつけて、ある意味では諦めて、「今」を生きようと覚悟を決めた人こそが幸福というものを手に入れられるのではないか。

定年退職して、のんびり過ごす祖父を見て、「楽そうでいいな」と感じるときがある。けどそんなことはなくて、きっと祖父はある程度幸せで、ある程度不幸。そもそも幸せの感じ方が人それぞれということもあるけど、きっとその歳にならないとわからないことがある。

そんなことを考えながら、幸せになれる「いつか」を待っている人にはついにその瞬間は訪れないのだろうなと思うのだった。。。




僕が友達から聞いた言葉で忘れられないものがある。


「幸せっていうのは、泥の中にある砂金を見つけ出すことで、砂金の中にある砂金を見つけ出すことではないんだよな」



幸せとは、苦しみの中にある喜びを見つけ出すことである、ということ。言われてみればなるほど、と思うが、案外世の中にはこの視点を持てている人が少ない気がする。






最後に、「人はいつになったら楽になれるのか?」のこたえを自分なりに導きだしてみる。人(僕)はいつまでたっても楽にはなれない。なぜなら、僕が苦しい、しんどいことに充実感を見出してしまう人間だから。楽にはなれない。













佐々木典士先生の「ぼくたちは習慣で、できている。」を読んで思ったことを書いてみました。読んでいただいた方、ありがとうございました。








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