7月31日の読書感想文

よしもとばなな『チエちゃんと私』

親戚の店でイタリア雑貨の買い付けの仕事をしている、42歳の「私」。「私」の一人暮らしの家に引き取られることになった、31歳の従妹の「チエちゃん」。オーストラリアのコミューンで育った、口数の少ないチエちゃんは、亡くなったお母さん、主人公の母の妹、の遺したお金で生活している。
チエちゃんと「私」の関係は、傍から見れば不思議で、歪んでいて、でも大切にされているものがある。淡々と語られる、チエちゃんや、人生や、仕事、愛、に対する「私」の思いは、私にとってはなんだかベールのかかった向こうの世界の話のようで、わかるような、わからないような、みたいな気持ちで読みました。

中学から高校にあがる春休み、一日じゅう家の本棚にあったよしもとばななを読んでいた日がありました。あの日友達からの電話に「なあに」と返事をしたわたしの声は、その一瞬だけ、よしもとばななの作品に出てくる女の人の発音だった。
そのあとはっとして、なんだか気恥ずかしくなりつつすぐ元のわたしに戻ってしまったけれど、よしもとばななの作品の持つ雰囲気に、15のわたしはのまれていました。気だるげで、上品で、少し湿って奥深く、でもさらりとしている、知らないホテルの何もない部屋の、まっ白いシーツの上で読みたい世界。

今日の『チエちゃんと私』はあんまり自分の中で響かなくて、なんだかふーっと読んでしまいました。そういう本もあるよね、というか、そういう時もあるよね、というか。
本との出会いって結局人生のタイミングなので、だって小説って人生じゃないですかどんなものでも、それがわたしの人生と重ならないと、ぴったりと読めない気がします。
でもいつも全力で読んでいても疲れてしまうから、こういう本は大事、と思ったりもする。
ミステリとか、どんなに自分と噛み合わなくても、絶対ふーっとなんて読ませてくれないもんね。
赤ちゃん用のおせんべい、軽くてふわっとした、優しい味がするやつ、を食べるみたいに読みました。

大学に入ってから、いやもっと前からかもしれないけれど、しなくてもよい読書をするという習慣が薄れていて、紙で小説を読むことに対する自分のスタンスを忘れてしまっている気がしてなりません。リハビリしていきたいですね。でもわたしの中身はもうどうしても毎日本を読んでいた中高生のころとは違うので、元には戻れない、新しく作っていくのだと思っています。わたし1度も怪我とかしたことがないのですが、スポーツ選手のリハビリもこういう感じなんでしょうか。

身体的に何かを学ぶ、感じる、ということが不得手なので、身体の感覚が鋭い人は羨ましいなと思います。頭と身体、どちらも自分のものとして扱える人が羨ましい。スポーツ選手とか、美しいですよね。身体って嘘をつけない気がするから、全部が真実なのだと思える。全然スポーツに興味無いけど、スポーツのために作られた肉体には感動しちゃいます。脳筋って、脳が筋肉なんじゃなくて、筋肉も脳、という意味だと思っています。何の話かな。

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