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私にアイドルを教えてくれた人が十数年ぶりに金髪にした記念

国民的アイドル、嵐。
1999年11月3日のデビューから25周年を迎える今年。
デビュー日よりも半年早く公開された記念写真に、全身の細胞が震えた。

業務連絡のような簡潔な文章。
前日には数枚の写真がモノクロで投稿されていて、写真集を出すような出さないようなことを仄めかしていたから、てっきりそうだと思っていた。
(ちょろいオタクなので、それはそれで舞い上がって即購入したと思うのだが)

よく考えたら、天性の策士がそんな分かりやすいことをするはずないのだ。
公開された8枚の写真とサブタイトルに、へぁぁぁ、とひしゃげたカエルみたいな、変な声が出た。

「二宮和也 金髪にした記念写真」

ゆるりとブロンドヘアーをなびかせる横顔を見て、一度スマホを置く。
あれ?この前、黒髪に戻ったばかりだったよね?
見間違いかともう一度スマホを見るけど、やはり彼の髪は明るく輝いている。
ん~、そうきたか。ギリ、と奥歯を少し噛んだ。

10年以上、彼のことを見ていたのに安易な予想をしていた悔しさ。
同時に、10年前と変わらず何枚も上手な彼に手のひらで転がされている感覚に「これこれ!」と騒いでいる細胞たち。

年齢と経験を重ねた分、穏やかでまろやかになった表情は、それでもまだまだ若く、幼く、すぐにでもヒビが入ってしまいそうなほど儚い。まるで、陶器のように。

透き通っているのに、この世が痛くて苦々しいと悟った“大人になりきれない子ども”を思わせる彼の表現が、どんなシナリオよりも染みて、大好きだった。
アイドルに全く興味がなかった13歳の五感と心臓を搔っ攫ってテレビにくぎ付けにしたあざとい笑顔の余韻は、年月が経っても、今も確かにそこにある。

彼の歩んだ10年と、ただの中学生がもがいた10年を同じ土俵に置くのは、大変おこがましいけれど。
だからこそ大人になった今、彼らが活動休止している今。

時が経っても色褪せない“彼ら”の歴史と、それを彩った彼の繊細な表現力が写真に収められているような気がして。
陳腐なオタクの脳は、40代の彼の金髪を拝めたことに、勝手に意味を見出した。

失礼な表現かもしれないが、そこには特別に輝かしいものは、あまりない。
ステージ上で纏っていたメンバーカラーも、スパンコールも、羽も、照明も、全部。

ただ、彼が映っている。
細くて柔らかな髪と一緒に、風に任せた遠い目で何かを見つめる彼がそこにいる。
それだけだけど、それが十二分なのだ。

血管の中に眠っていた、彼らをあらゆる媒体で必死に追いかけた青春の熱と興奮が騒ぐ音がする。
ミルクティーのような抜けきらない髪色を今すぐ指で梳いて撫でまわしたい(迷惑!)くらい、どうにも愛おしくて堪らなかった。

何だか気持ち悪い言い方だが、10年発酵熟成されたオタクの考えることなので許してほしい。
理屈じゃなくて夢中になってこんな気持ち嘘じゃない。これに尽きる。

柴犬のように柔らかくて丸みのある眉。
きゅ、と引き締まった口元。
憂いと、優しさと、濁りを混ぜた丸い瞳。

時にアイドル、時に役者、時に1人の人間としてカメラを見つめ、共演者を透かし、ファンを愛し、友を守る眼差し。
何手も先を読んで場を回し攻守を巧みに使い分ける、意図的だけど嫌味のない人たらし感。
彼の手で紡がれた言葉までもシャッターに切り取るような優しさ。

無邪気でいて、目に見えないものさえ画にできる才能が尊い。
たまに、ずるいとさえ思う。でも、そこがいい。
大人として、人間として、人生の師として。だから惹かれるのだ。

余談だが、公開された8枚の中では圧倒的に「#2」が好きだ。
勝手に想っているだけなのだが、それらがぎゅっと凝縮された1枚な気がする。

全てこじらせたオタクの妄想で、だけど、それはきっと幻じゃないと。
染みついた振りを踊りながら、今日もパワーを分けてもらうのだ。