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わたしにレッテルを貼らないでください!

コミュニケーションは難しい。それは,きっと多くの人が実感していることと思う。

では,なぜコミュニケーションが難しいのか。
その原因のひとつに,他人を理解することの難しさがあるのではないかと感じている。
そして,他人を理解することを難しくしているのは「レッテル貼り」と呼ばれる現象だと思っている。
今日はこのことについて考えてみよう。


ーー
前提として,人のパーソナリティは本来複雑だというのがわたしの基本認識だ。
人の人格は生い立ちによって相当の影響を受けるし,その後の人生によっても影響を受ける。人生●年生きてくると,様々な刺激がその人の人格を形作る。それは,シンプルな記号,例えば,AタイプやBタイプといったもので表せるものではない。もっと人の人格というのは複雑である。


似たような3人の人がいても,それぞれの人は違う人格で,1人1人の個性が必ずある。
それぞれの人特有の考え方や表現の受け取り方がある。
理想的には,その人のパーソナリティをまるごと受け止めて理解したい。
でも,それはとても大変なことだ。


複雑なパーソナリティをあるがままに理解することは大変だから,人は,他人を理解するうえでレッテルを貼りがちになる。
「●●という属性をもったあの人はこういう人だ」「●●という行動をとるあの人はこういう人だ」と。さらに極端な話をすると「男はこうだ」「女はこうだ」「若い人はこうだ」「老害はこうだ」みたいな言説,世の中に溢れまくっている。

「こうだ」「こうに決まってる」「あいつはわかりやすいよ」「あいつはこういうタイプだよ」「あいつのキャラはさ」「男ってさぁ」「女っていうのは」「あの年になってくると」「あいつはまだ若いから」「都会の人だからさ」「東京に出てきたばかりだから」・・・・・うるせぇぇぇぇ。


レッテル貼りの2大要素は属性と行動である。特定の属性や特定の行動から人を「こうだ」と決めつけ,「わかったつもり」になって満足し,レッテルによって,人を理解するための思考回路が停止してしまう(本当はまだまだ理解していないのに,あるいは人は時とともに変化し得るのに)ということが起こりうるのだ。 


レッテル貼りという現象は,個人レベルでも,人種レベルでも,国家レベルでもよく起きる現象であり,特定の外国人に対する差別や,年齢,性別に伴う偏見に関わる世の中で報道される残念なニュースも,要するにレッテル貼り現象のなせる技である,と思う。血液型がこうだからあの人はああだみたいな話はお遊びとしては面白い。しかし,そのようなパターン当てはめ思考はお遊びにとどめておきたい。 


ーー
かくいうわたしも,レッテル貼り現象にとらわれることがある。
仕事(弁護士)を例にして話してみよう。


例えば,司法業界では,しばしば「裁判官は冷徹で合理主義で冷たい。出世のことばかり考えていて事件をいかに迅速にさばくか(処理するか)ということだけを考えている。」というメッセージが流布される。実際にそういう類の本も多々出版されている。 
わたしも,法曹界に入る前(あるいは入ってすぐくらいの時期)は自分でもそのように思っていた節がある。 


しかしながら,長くこの世界につかっていると,意外とそうでもない,という経験が増えてくる。
むしろ裁判官の温かみのある情に感動を受けることもあった。 


例えば,ある裁判官は,障害を負った息子の母親が裁判終了直後に「これから頑張っていきます」と語ったことに涙目になりながら耳を傾けていた。
別の裁判官は,(どうみても負け筋の事件でありお金が全くとれない可能性さえあったのだが)「ご家庭が可哀想で,この事件ではどうしても●●円はとらせてあげたい」と発言した。 


また別の裁判官は,刑事事件で執行猶予という結論を書いたあと,(そのあとは何も書く必要がないのに被害者の心情を慮って)「執行猶予ということは罪が許されたということではない,あなたの被害感情が強いのはよくわかる。加害者は一生贖罪の方法を考え続けるように」という「傍論」を書いた。 


このように,実は常に熱く,共感力の高い裁判官は確かにいる。
でも,そういう人がいることはあまり報道されない。


人の属性に対するレッテルは,自分が知っている限られた情報のみで形作られる。
でも,自分が知っている情報がこの世界や他人を理解するうえでのすべての情報であるはずもない,ということは頭の片隅に置いておきたい。


ーー
頭の片隅に置いたうえで,さあどうしようか。
まずは身近な人間関係で「不適切なレッテルを貼っていないか」を検証することからはじめてみたい。
友達や恋人,夫婦でも,やはりレッテル貼り現象は起こりうる。
人の認知というのはやっかいなもので,人のことを「こういう人だ」というレッテルがいったんかかってしまうと,そのレッテルと齟齬する情報がなかなか見えなくなってしまったり,そのレッテルと矛盾しないようにその人の行動を解釈してしまうのだ。
そして,いったん関係性ができてしまうと(特にその関係性が強固だと),その時点で「この人のことをわかった」と思ってしまい(それがレッテルである),それによって他者に対する理解の歩みを止めてしまうものの,実は全然その人のことを理解できていなかったということさえ起こることもある。 


人はレッテルによって人に期待することがある。
そして,そのレッテルと違う行動を他人がすると勝手に失望したりする。
実は,最初に貼ったレッテルが間違っていただけなのかもしれないのだ。


「どんなときも話を喜んで聞いてくれる夫」
疲れているかもしれないのに??
「どんなときも笑顔でいる妻」
本当は泣きたいときがあるかもしれないのに??


レッテルを貼りすぎると,本当に見なきゃいけないものが見えなくなるから恐ろしいのだ。
——


レッテル貼り現象と他者理解の難しさに対する即効性のある処方箋というものは存在しない。
しかし,今,わたしが思っていることは,次のようなことである。 


他者を理解するということは実はとても難しいことなのだということを知ろう。
「わかったつもり」は簡単でも「わかった」は実に難しい。「わかったつもり」がスタートラインなら,「わかった」というゴールは程遠い。
それが遠い人でも近い人でも。


だが,難しいからこそ理解しあうための歩みが尊く美しいのだ。
だから,わたしは,もっとも身近な妻のことも,
「わかったつもり」にならず,
簡単にレッテルを貼ることなく,
一生涯かけて理解を深めていきたいと思っている。

高ければ高い山のほうが,登ったとき気持ちいいもんな。

#コラム  #コミュニケーション #夫婦 #結婚 #スタートライン


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