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つけめんヒストリ エピソード 7


 青木家の兄弟


昭和20年、戦時下の空襲で半分の家屋が焼失し、至る所で焼野原となった東京。
バラック小屋が建てられ、さながら避難民のような人々が暮らす風景。
「光は新宿より」で始まった東京の闇市は各主要駅周辺に瞬く間に広がった。
統制経済で政府は、不足する物資、食糧の消費量を制限し、米、小麦粉などの主要農産物は配給制であった。
人々が必要とする食材や物資は、極度のインフレも重なり圧倒的に不足して浮浪者が増え餓死者がニュースになっていた。
庶民は自ら農村部への食糧の買い出しや、闇市で法外な値段の生活必需品を購入して生活していた。

昭和22年春、露店からバラックの長屋に変わった闇市は、人々の生活に溶け込み賑わいをみせていた。
青木勝治(あおきかつじ)は兵役を逃れて疎開先の山ノ内から上京し、同じく青木家六男の青木保一(あおきやすいち)、そして兵役で8年の長い間戦地にいた七男青木甲七郎(あおきこうしちろう)と荻窪で再会を果した。
お互いの無事を喜んで三兄弟はかつての商売の腕を頼りに、団結して店をスタートさせる。
場所は都電の荻窪駅前(旧荻窪3丁目)にバラック建ての店を十一万五千円円で買い取った。
その当時、新宿と荻窪を繋ぐ都電杉並線は重要な交通機関で、地下鉄丸ノ内線が開通するのは25年後の昭和47年である。
闇市では当初、生活者が甘いものを欲しがっていたので、甘味品、芋アメなどが多く売られていた。
青木兄弟はその店で、ズルチン、サッカリンを代用したしるこ、ぜんざいなどの甘味類の販売を開始した。
この頃砂糖は市場に出回ることは殆どなく、インフレもあり場外において大変な高値で取引されていたのである。

中華そば加工販売


日本そばはタデ科の一年草で、ソバの種(実)を挽いた茶褐色の粉を水で捏ねて、伸ばしたものを裁断する。
日本での蕎麦粉の歴史は古い、その始まりは400年前。
そばがきから、そばぎりへ変化し、それが世に広がるのは江戸時代であった。
全国各地方にそば打ちの伝統技術が存在し、日本の食文化の一つとなっている。
終戦後のそば粉は統制下で粉の質が非常に悪く、食べられるものでなくなっていた。
戦前より日本蕎麦屋を営んでいた青木兄弟たちだったが、そば粉を仕入れて同じように蕎麦屋を営業することはできなかった。
しかし甘味の店を開店した年の10月、GHQが日本経済再建計画としてアメリカ産小麦粉を大量に輸入し、このメリケン粉が各家庭に配給されることになる。
これをきっかけに小麦粉がそば粉、米よりも入手し易くなったことで庶民の食べるものは主に小麦粉で作られたすいとん、うどん、中華そばなどになった。
青木兄弟たちはプーリー(滑車の意)と俗称される手動製麺機を購入し、これらの小麦粉を委託加工してうどん、中華めんの販売を開始する。
この販売をきっかけに、店でも中華そばを作って売ることになる。 

ここに丸長の屋号が誕生した。
丸長の長の謂れは青木兄弟達の出身地長野のことを指す。
この時はまだ食管法統制下で供給される小麦粉で中華そばを作り、これを店で売ることは固く禁じられていた。
このため小麦の代用品として、ひえ、あわ等を混入して販売する事になる。
中華そばの委託加工販売の技術は手捏ねの麺体作りから、後に電動ミキサーの攪拌機とロール式製麺機に変わり、のれん分け各店舗の自家製麺へと継承され、丸長の強みとなっていく。

その年の12月青木勝治の義弟、山上信成が復員し三兄弟と再会した。
山上信成は戦前より勝治の店砂場で働いていた。
新たに4人となり、続いて荻窪駅北口の華僑マーケット仮店舗に2店舗目となる中華そば丸長を出店した。
間口が一間半、奥行が半間という、一坪にも満たない屋台であった。
出店と言っても、華僑という第三国人の名義のもとに中華そばを売ることにしたのである。
この店は後に山上信成が丸信として引き継ぎ、三福マーケットの大火事を乗り越え、駅前広場の立地を手に入れて、荻窪ラーメン御三家の一つとして大繁盛店となっていく。

坂口正安の修行時代

坂口正安(さかぐちまさやす)は大正13年、長野県下高井郡山之内町横倉で坂口家の五人兄弟の三男に生まれた。
家業は承応時代から続く農家であった。
文久元年の大干ばつ災害で灌漑用水事業を余儀なくされ、以後の家計は厳しくなっていった。
小学校時代の成績は優秀で本人はそのまま中学へ進学できると思っていたが経済的理由でそれも叶わず、自身の境遇を泣きながら担任教師に訴えたという。
知り合いの伝手で小学校卒業と同時に上京し、日本橋の蕎麦屋に就職した。奉公時代は腹掛けと法被と鉢巻で出前の毎日だった。
当初は自転車での出前がなかなかうまくいかず、配達中に前のめりになり、蕎麦蒸篭をすべて投げ出してしまうことがあった。
アスファルトの道路が街に整備されるのは昭和40年代からで、未だ舗装されていない砂利道の中、ガス、水道などの工事も頻繁にあるため、盛り土を通過する時の振動が原因であった。
重量20kg以上になるかというそば蒸篭を何段にも重ねて左肩に担ぎ、左手でこれを支えて右手でハンドルを操作しなければならない。


頑固な蕎麦職人たちが競って蒸篭の段重ねを自慢し、中には頭上に載せて配達していた強者もいたそうで、まさにアクロバット的な所業である。
この蒸篭の出前をなんとか上達させるため、仕事が終わった夜中に水を入れた醤油一斗樽をそば蒸篭に見立てて、担いで慣れるまで出前の練習をした。
その後練習の甲斐もあり出前配達の技術が上達し、一人前の仕事をできるようになった。
幼少時から「粉正」というあだ名をつけられるほど小麦でつくった、ひんのべ、うどん等を食べるのが好きで、この商売は自分に合っていたという。

上京してから数年後に縁あって同郷の知人である青木勝治の経営する店、小岩の砂場に入店した。
このときには丸信の山上信成(やまがみのぶなり)がすでに働いていおり、従兄弟の江古田丸長の坂口嘉六(さかぐちかろく)は後に入店する。
小岩で数年働いた後、吉祥寺で店を営んでいた青木保一の元にお世話になる。
時代は太平洋戦争に突入し昭和18年、正安は徴用工を経験し、その後17歳で南方要員として徴兵された。
台湾に従軍したが、不運にもその戦中にマラリヤの病に犯されてしまった。
復員後、母さよの実家がある信州中野の高山家で療養のため過ごすことになった。

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昭和32年頃 正安の生家

              

山岸一雄の父国雄

正安の母さよの実家はさよの兄で家長である高山為蔵(たかやまためぞう)の家族が暮らしていた。
為蔵には三人の娘がいて、三女はるは二人の子供達と共に横須賀から帰郷して身を寄せていた。
はるの主人は太平洋戦争で帰らぬ人となっていた一雄の父、国雄である。
国雄は戦争初期昭和17年11月16日、奇跡の軍艦と謂れた駆逐艦「春風」に乗船して、ジャワ沖を航行していたところ機雷に接触し、右舷の艦橋前数メートルのあたりで大爆発を起した。
艦体前部が破裂、火災発生したが幸い艦全体に及ばず奇跡的に沈没は免れた。
しかし喪失してもぎ取られた艦体前部は、そこに居た28名の乗組員とともに海に沈んだのである。
その中の一人に父国雄がいた。
享年34歳であった。
国雄は水兵からたたき上げて砲術長として活躍し、部下から慕われていた。亡くなってからは長野で遺骨のない葬式をしたが、その時は少尉に昇進していた。
山ノ内の農村から珍しく海軍軍人となって戦死したことで、地元では英雄扱いされた。
この父国雄の壮絶な生き様が、一雄のそれからの人生に大きく影響する。
8歳で父を失った一雄は母、妹と横須賀の久里浜から帰郷し高山家で暮らしていた。

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昭和32年頃 千曲川 舟橋(現在の古牧橋)


正安は戦争に出征して不運にも命を落としてしまった国雄を尊敬し、また幼くして父を失った一雄を気遣った。
10歳ほど年が離れていたが一雄を弟のように思い、また一雄も正安を実の兄のように慕い続け、終生正安を兄貴と呼んだ。

6月山菜の収穫が始まる。
タラの芽、蕨、ぜんまい、ふき、筍など。
晴れた日の高社山山頂からは遠く続く長野平野に蛇行した千曲川が銀色に輝き、信越線の汽車の煙がたなびく。
畑にはきゅうり、なすなど野菜も植えられ田植え、養蚕も始まる。
数ヶ月療養していた正安は畑仕事を手伝いながら、一雄を誘ってはすぐそばの千曲川での魚とりに出掛けていた。

田植えも終わる夕暮れには青田の中から蛙の合唱が聞こえてくる。
そんな時、一雄は縁側で正安からハーモニカを教わった。
正安が軍隊で覚えたハーモニカは名調子で、奏でる音色が郷愁を誘う。
敬愛する父の死と終戦、軍人へのあこがれから一転、一雄の思いは病弱な母と妹を支え、強く生きていかなければならない思いが強くなっていく。

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昭和32年頃 高社山

             


正安上京で阿佐ヶ谷へ

昭和23年春、山ノ内で暮らしていた正安は、戦争で罹った病いも癒えて、東京で再出発する決意を固め故郷を後にし、新たに丸長の門を叩くことになった。
ちょうどその年の6月、青木兄弟は荻窪丸長中華そばの繁盛店の勢いそのままに、阿佐ヶ谷北口駅前に支店を出した。

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 現在の阿佐ヶ谷 三菱UFJ銀行とSEIYUの間にあった栄楽

    

阿佐ヶ谷華僑マーケットにあるその店は居抜きで、間口一間半、奥行二間(六畳と同じ広さ)のバラック建ての店で、正安は一切を任されることになる。
当時は駅前という立地もあって、周囲に輪タクと呼ばれる自転車を改造したタクシーが数十台置かれていた。
食糧管理法の統制下で主食の米、小麦粉の販売は固く禁じられていたので、開店するには警察からの取締を逃れるため、第三国人の名義を借りて営業する他はなかった。
借りる前の店主が使用していた屋号をそのまま引き継いで、中華そばを売り始める。
看板には栄楽と書かれていた。

昭和34年には駅前再開発のため区画整理で立退きが決まり、現在の場所に移転し丸長となった。

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  栄楽の後、現在の阿佐ヶ谷丸長 令和2年にリニューアル

    

新たな中華そばの創造

明治時代後期、長崎、横浜、函館などの外国人居留地の中国人によって始まった支那ソバは大正、昭和初期にかけてブームとなっていく。
労働者、学生、低所得者を主な市場としていた支那ソバは繁華街、屋台などで多く見かけられるようになっていった。
文明開化の西洋、中国の影響で肉食が世に浸透し、支那ソバも支那料理の中のメニューとして、鶏を主体にスープをとっていた。

青木兄弟は戦前から日本蕎麦職人だったので、鰹、鯖、昆布等の魚介系の旨味を別に抽出し、豚、鶏のスープと混ぜ合わせることで新たな中華そばの味を創造したのだった。
支那ソバ誕生から半世紀を経て、時代と共に嗜好も変化を余儀なくされ、日本蕎麦風にアレンジされた中華そばは、それまでの鶏ガラ主体の味に慣れていた生活者へ新たな需要を生み出していく。
この頃から支那という言葉が差別用語にあたるとして、中華そばへ名称変更になっていた。

かくして醤油に合う伝統の魚ダシ、鯖、宗田鰹の出汁と豚ガラスープ、かん水の臭いの入り混じった独特な香りが、屋台の軒先から漂い、新しい中華そばの時代が幕開けした。
世の中が落ちついてくるに従って、さすがに客も変なものは口にはできなくなり、素人商売ではできない美味しい味が巷の噂となって繁盛店となっていったのである。
この魚だしを混ぜた中華そばスープは、自家製麺とともに、それからのつけそばの発展には欠かせない2大要素となる。

竹節延夫(たけふしのぶお)は昭和26年の春、この阿佐ヶ谷栄楽に入店し、のちに中野駅北口に昭和33年、同じ栄楽の屋号「和風つけそば 栄楽」を掲げて開店を果たし、その屋号を残すこととなる。
同じ阿佐ヶ谷栄楽の青木竹雄(あおきたけお)は中野の新井薬師駅前に丸長を出店する。


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 昭和32年頃 阿佐ヶ谷組の三人 左から正安 青木竹雄 竹節延夫

  

第三国人事件

ある日の朝突然、栄楽の店の間口に木戸板が十字に打ち付けられていた。
家主の第三国人が営業を不可能にさせてしまったのである。
そのトラブルは、繁盛を続けて行列のできる栄楽を目の当たりにして、また当時のインフレのせいもあり、家賃額が割に合わないと判断したのが原因だった。
この時の物価上昇はすさまじく、あらゆる食材、日用品が一年で数倍になっていた。第三国人も生きるためには同じく必至の思いだった。
第三国人とは戦時中強制的に労働させられていた中国人、台湾人、朝鮮人のことを総称して言う。
当時これらの人たちは解放国民として自由な身となって、敗戦国日本ではこの時警察が取り締まることができなかった。

青木兄弟は徹底抗戦の構えでこの第三国人に抵抗した。
仲裁は裁判所に持ち越される。
当時敗戦国の日本人と戦勝国の外国人のトラブルは八王子の軍事裁判所で解決されていた。
店を営業できずにその裁判での費用と労力も重なった。
暫くして和解交渉の話も出るさなか、権利人の第三国人はあと5万円差出したらそのまま店の権利を譲渡すると言いだした。
裁判での費用がかさみ、さらに大金を支払うことになれば大きな損失になる。
まさに盗人に追銭とはこのことではないかと兄弟たちは憤った。

この時正安は店の売上利益やら、時間損失を加味すると早くその5万円を支払って、一刻も早く店を再開することが妙案だと進言した。
兄弟は正安の考えにやむなくと結論付けたが、しかし5万円払ったとして権利を取得し、問題となるのが営業するための警察の許可であった。
第三国人の名義で小麦粉の中華そばを売るのは許されてはいたが、日本人が売ることはできなかったのである。
警察の許可をとるのがまた大きな壁となっていた。
そこで正安はこの問題解決のため、杉並警察署経済課に出頭し営業許可をもらうことになる。
小麦粉に見立てたでんぷん、アワの粉等に小麦粉を少量混ぜ、なんとか生地を繋いでそばをつくり、これを持参した。
小麦のグルテンがないので麺がプツプツと切れてしまうが、どうのこうの言ってはいられない。
袖の下ではないが、お茶二袋のお土産を持って商売の許可を懇願した。
様々なトラブルを抱えた人々が経済課を訪れていたが正安の番となり、土産のお茶を担当者に差し出したが拒否された。

「私どもは復員して何をするといったら職人としてそばを売ることしかできません」
「このそばでほんとに売れるのか」
「問題は味にありますので大丈夫です」
「見回りにいけばどんなものを売っているかは分かるぞ」

署員から再調査の念を押されたが了解して許可をもらい、土産のお茶を机の下にそっと置いて警察署をあとにした。
申請にめでたく許可が下り、第三国人に5万円を払い栄楽の看板を掲げて営業再開することができたのである。

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昭和33年 正安と青木兄弟たち

           


丸長分離のれん分けへ

勝治は明治39年、長野県下高井郡山之内町上条にある青木家の農家の次男で生まれた。
幼少期には上京し蕎麦店一筋に丁稚奉公を経験して独立、小岩に日本蕎麦屋「砂場」を開店した。
勝治の誕生と時を同じくして日本に支那ソバの黎明期が訪れる。
支那ソバは日本蕎麦に比べればマイナーな存在から始まり、食する人々も労働者、学生らに限られていたマーケットから、徐々に一般生活者に受け入れられていくことになる。
いまでこそRamenが日本を飛び越えて世界に通じる名の食文化になったが、ラーメンというメニューが巷の店に表記されるようになるのはそれほど昔のことではない。
その名に至るまでの支那ソバあるいは南京そば、中華そばの歴史があったのである。

終戦時の食料統制で、日本蕎麦が中華そばに余儀なくされたことで、のれん分け制度を丸長にも踏襲していく。
十数年という期間を奉公して務めた日本蕎麦屋の屋号を継いで、一国一城の主となる老舗のれん分け制度に身を置いた勝治は、自分もそうであったように丸長で後進を育て、弟子たちを世に送り出すことに意義を持っていた。

丸長の祖となる男は眼光鋭い表情と偉丈夫な体躯で人を圧倒したが、人情あふれるその男気は親分として皆から慕われた。
独立して同じ志をもつ一人の人間として、後に続く弟子たちを子供のように感じたことだろう。
独立した店主にはそれぞれ家族がいて、子供たちを養う。
自分の城をもつことこそ男の生きる道であった。

兄弟たちは分離独立してそれぞれの努力で店を営業していくことに誰も何の異論はなかった。
荻窪南口丸長は勝治がそのまま受け継ぎ、数年後に現在の三菱UFJ銀行の場所がある駅前に別店舗を出店。
この店は借り店舗であったため立ち退きまで営業するが、この駅前店で多くの独立者を排出する。
北口丸信は信成が継承し、その後現在の丸信本店に居を移す。
阿佐ヶ谷栄楽は保一、甲七郎は新たに川南に栄龍軒を開店した。







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