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寿命1ヶ月と就職活動、どちらをとるべきだったか未だに答えがわからない

2022年3月。

大学4年生だった私は、就職活動を本格的に始めた。

このnoteは就職活動記ではなく、私の就活中に起きた出来事です。
就職活動も大切だけど、本当に大切だったことは就職活動だったのか。
今でもわからないけれど、そんな思いを綴ってみました。

1.普通の就職活動

世間一般的には大学3年生の春〜夏から始める人も多いと言う。
実は私もその1人で、会社説明会やインターンは大学3年生の5月頃から行きはじめた。
コロナ禍により大きく変化した社会は、就活もしかり。
ほとんどオンラインでの参加になった。
パソコンの前に何時間も座って説明を聞き、時には同じ就活生と話し合うグループワークを行い、笑顔を貼り付けて面接官へアピール。
色んなところに参加してみたけれど、自分の心が動くような企業には中々出会えなかった。
次第に就職活動が嫌になり、秋頃には説明会もインターンも行かなった。
将来に対して明るい未来が描けなくて、全て投げ出しかけていた。

冬にさし掛かろうかというある日。
大学の講義でキャリアの授業があった。
必修の授業で、自分で好んで取っていたわけでもなかった。
その日の授業で、今見ている企業を周りの人と話し合ってみようという時間があった。
私も友達もマンガが好きで、2人で何気なく話した。

「出版社から内定出たら断らないよね〜」

あれ?私、出版社行きたいんじゃない?
急に頭の中にストン!と落ちてきた。
単純な私は自分の直感を信じ、その日から出版社を目指すことにしたのである。

調べてみると、出版社でインターンをしている会社はほんのわずか。
しかも、夏のみ。
インターンには参加出来なかったが、出版社に行くんだ!という強い意志だけを持ち始めた。
本来ならここでOB・OG訪問や会社説明会に参加するべきだったのだろうけど、地方の小さな大学出身の私の大学では出版社に進んだ人は片手でもあまるほどしかいなかったのである。(そもそも出版社に行きたいと言うような本好きの集まる学部でもなかったのもある。)
こんな状況だったらOBOG訪問は無理!と自分の中で諦めてしまった。
そこからの私は、出版社に行きたいという気持ちだけはあるも、インターンしてないなら今は何も出来ない!と思ってしまい、何もしなかった。驚くほど何もしなかった。
3年生の時何していた?と聞かれても何も思い出せないのが正直な記憶。
同級生が早期選考やインターンに勤しむなか、何もせずに春休みを迎えてしまった。

2.春休み突入、本選考開始

「あれ…?」
1月末、就職活動の本格化は3月からだと思っていた私はとあることに気がつく。
そう、大手出版社のエントリーシート締切は2月頭〜中旬だったのである。
何もせずのほほんとしていた私は大慌てだった。
大手出版社は人気が高く、入れるとは到底思っていなかったけれど、出すだけ出した方が良いと思ったからだ。
春休みで大学に行かないから友達にも会わない、出版社を目指して就活している人は周りにはいない、大学の卒業生で出版社に行った人はいないから過去のことも聞けない。
あれ…危機的状況?
慌ててエントリーシートの書き方をネットで調べたりしながらなんとか書き上げて、締切当日まで書いて無理矢理提出した記憶がある。
案の定エントリーシートで落とされて、これはまずいと思った。
そこからは大学の先生やキャリアセンターに相談し、添削をしてもらうようになった。
しかし、先生達からはうちの大学からは出版社行った人はほとんどいないから厳しいと思うよ…と何回も言われた。
そりゃあそうだと思う。何か実績がある訳でもない、文学を学んでいた訳でもない。
先生達もまずは内定を取って、そこから就職活動を続けてみたら良いのではないか、と言ってくれた。

しかし、私は1度決めたことはやりきる性格であり、良く言えば粘り強く、悪く言えば頑固だった。
「受け切れるところ全部受けて、ダメだったら諦めますんで!!!」
そう言って、私の就職活動は本格的にスタート!
の、はずだった…

3.わたし

ここで改めて、私について。
地方の大学に通う普通の大学生だった。
バイトして、サークルして。
旅行やカメラ、カフェ巡りも趣味だったし、マンガや本、アイドルも大好きな多趣味な人間である。
家族と一緒に住んでいて、祖父母・父母の5人家族だった。
一人っ子なことに加えて、心配性の両親。
親の敷いたレールを疑うことなく歩いてきた。
それに対して後悔はない。
今振り返っても楽しかったし苦しかったことも沢山あったけど、それが今の自分を作っていると思うから。
もし人生をやり直せるなら、違う道を選んだかもしれないけれど今の私を作ったのは今だから。
兄弟がいない分、大切に育ててもらった自覚はあるからこそ、人一倍家族に対する思いは強いと思う。

だからこそ、今でも私は分からない。


寿命1ヶ月の祖父といれたはずの時間を削ってまで、就職活動をするべきだったのか。

4.祖父とわたし

祖父は強く、優しく、芯のある人だった。
私が物心ついた時は既に病にかかっており、手術をしたり薬の手放せない体であった。
しかし、そんな事を感じさせないような人だった。
家の庭で花を育てたり、家庭菜園を作ったりして常に庭の様子を気にかけていた。
調子の良い時は昔からの仲間と旅行しに全国を飛び回っていた。
私の習い事の帰りには迎えに来てくれた。
お喋りではなかったから特に何を話したわけではなかったけど、手を振って迎えに来てくれるような優しさがあった。

祖父の容態が急に悪化したのは、私が大学4年生になる3月だった。
歳を重ねていたことも原因の一つではあっただろうが、明らかに様子が悪くなっていった。
うたた寝する時間が増えたし、大好きな庭の手入れも出来なくなった。
祖母と一緒に行っていた散歩もできなくなって、ソファからじっとテレビを見る時間が多くなった。
そのうち、リビングからほんの少ししか離れていない寝室まで歩くことも難しくなり、リビングの隣の部屋に簡易ベッドが置かれた。

明らかに様子が悪かったのに、気がついていたのに。
就職活動があるからといって、私は目を背けてしまった。
弱っていく祖父を認めたくなかったのかもしれない。
同じ家に住んでいたのに、祖父に会いに行くことが少なくなってしまった。

2月からエントリーシートを書くためにほとんど家にこもって作業をしていた。
その作業を、祖父のいる部屋ですれば良かったのに。
それだけの事だったのに。
どうして私は目を逸らしてしまったのだろうか。

最後にした会話は、亡くなる前日だった。
何とか元気になってほしくて、枕元に家族の写真を貼ったり、祖父の写真を撮った。
「かっこよく撮れてっか?」
真っ直ぐ私の目を見て、祖父が問いかけてきた。
「バッチリ撮れてるよ!」
それが最後の会話だった。

ここまで書いてきたが、実は私が祖父の寿命があと1ヶ月と知らされたのは亡くなった後のことである。
祖母・父・母は就職活動で毎日バタバタしていた私に気をつかって言わなかったようだ。
特に母は、祖父が寿命1ヶ月なんて信じないと思っていたようで、祖父が生きてくれることを強く願っていた。
今でも考える。
もしあと1ヶ月と知らされていたら、私はどう行動していたのだろうか。

5.亡くなったあとに

祖父が亡くなって、少なくとも1週間は毎日泣いていたと思う。
しかし、その間も世界の時計は止まらず時間は流れていく。
3月の下旬と言えば、各企業のエントリーシートの締切が山程あるタイミングだった。
狭き門だとわかっている出版業界に行くには、とにかく数を打たなければならないと言うことがわかっていた。
祖父が亡くなった日も、無理矢理録画面接を取りきった。
お医者さんや親戚が入れ代わり立ち代わり来る中、隙間を縫ってエントリーシートを書いた。
画面を見ながら、溢れる涙で前が見えなかった。
無理矢理目を擦り、なんとかエントリーシートを書いた。

なんで、大切な人が亡くなったのにこんなことしているんだろう

そんな気持ちと

今頑張らないと、後々後悔することになりそうで怖い

そんな気持ちがせめぎあって、自分の心の中はぐちゃぐちゃになっていった。

葬儀から2週間程経ち、書類選考の結果が返ってきていた。
しかし、エントリーシートで尽く落とされて面接がほぼ無かった。
そりゃあそうだと思う。
家族が亡くなって未来が見えない中、自分の将来を前向きに書けていた自信はない。

そして私の心は完全に壊れた。
4月はほとんど就職活動をストップした。
それでもバイトには何とか行き、大学の講義も休まず受けた。
ゼミの同級生は内定を取り就職活動を終える人も多くなる中、1人、私の時間は止まった。

6.再び歩き出すまで

心が壊れた私は、自分の心を癒すことに時間を使ってみた。
祖父に移ったら大変だと両親に言われ、ずっと禁止されていた旅行に友人達と行った。
大雨の中で花火大会を見に行って、銭湯に飛び込んだ。
銭湯で友人に聞かれた。
「今回来れたの珍しいね!良かったー!ご両親の許可おりたの?」
一瞬言葉に詰まった。
素直に言うべきか、誤魔化すべきか。
家族が亡くなったと言ったら気まずい雰囲気になってしまうんじゃないか…と思った。
それでも、不自然に誤魔化すよりは正直に話してしまおうと思って、話した。
「病気だったおじいちゃん亡くなっちゃって。今まではおじいちゃんに移したら大変だって言われてたから、旅行我慢してて。でも、両親も気晴らしに行っておいでって言ってくれたんだ」
緊張した。
家族が亡くなったことを自分の口で誰かに伝えるのは初めてだった。
私の話を聞いた友人もどうやら同じ境遇を経験したらしく、軽すぎず重すぎず、暖かく受け止めてくれた。
友人も同じく就活生だったから、頑張ろうねと励ましあった。
時間は無かったけれど、ゆっくりゆっくり、前に進むしかないんだと思った。

5月に入り、私の時計は少しずつ進み始めた。
毎日マイナビで出版社の募集要項を見たり、自分が持っている本をリスト化してその出版社のホームページから求人情報を探したり。
もちろん出版社が全滅の可能性もあるので関連した業界の選考も受け始めた。
最初は沢山失敗した。
オンライン面接ではカメラではなく面接官の顔を見てしまい視線の位置がおかしくなったり、焦って質問されたことと違うことを答えたりした。
1回の面接で信じられないぐらいの冷や汗を書いて、終わったらその日はもうぐったりしたりもした。
面接は場数を踏むことが大事と言われていたけれど、中々場数を踏む余裕も時間も機会も無かった私は沢山沢山落ちて、悔しい思いをしながら経験を積むことになった。
出版社でこんなことがしたいんです、と熱く話したはずなのに、何社も落とされ、その度に自分の目標は、自分は社会では要らないのではないかと落ち込んだ。
両親や先生達も無理せず、別な業界の企業も受けてみたらと言ってくれた。
それでも、そこで諦めたら私が祖父と過ごさなかった最後の1ヶ月が本当に無駄になってしまう気がした。

就職活動なんてもう辞める!って何度思ったことだろう。
それでも、もう本当に手が無くなるまではやり切ろうと思って歯を食いしばり続けた。
そしてようやく、7月のある日に出版社から内定を頂くことができた。

涙が溢れた。
祖母も、父も、母も、良かったねと口々に声をかけてくれた。
おじいちゃん、私は自分の目標だった出版社に、今の自分を作ってくれた本を作る会社に入ることになりました。

7.今もまだわからないけれど

内定を頂いてから、ちょうど1年程が過ぎた。
大学生最後の生活は、卒論を書いたり友人と旅行するために月1で飛び回った。
家を出ることが決まったので、家族との時間も大切にした。
暇さえあれば祖母と話し、祖父の遺品整理を手伝ったり、昔話を聞いたり。
今までで1番一緒に過ごしたと思う。
最後に一緒にいられなかった祖父へのせめてもの恩返しになっただろうか。

無事内定を頂いた会社で社会人として働き始め、4ヶ月程が経つ。
毎日学ぶことも沢山あって、自分の力不足を痛感して。
成長したいと思うし、自信を持ちたいとも思う。
それでも、今の自分を作ってくれた本達を作る人たちの1部となって働いていることはとても誇りに思っている。

でもね、今でも私はわからないんだ。
あの最後の1ヶ月、一緒に過ごしてたら良かったって今でもずっと思う。
それでも、今の私があるのはあの1ヶ月を就職活動に費やしてしまったからだと思う。
多分、おじいちゃんは目標にしてた会社に入れて良かったな!って笑ってくれると思う。
でもやっぱり、もっとそばにいればよかった。
ちゃんと話しておけばよかった。
叶わないけど、私の会社の本だよってプレゼントしてあげたかった。

ねぇおじいちゃん、私は今でも正解がわからないよ。
でもさ、がんばるからさ。
上から見守っててよ。
いつか、私の会社の本、プレゼントしに行くからさ。
その時は、がんばったなって褒めてね。
私はおじいちゃんの孫に生まれて幸せです。

(追記)
家族の写真はいっぱいあるといいです。
特に動画があるといいです。
大人になって家族の写真撮るの少し恥ずかしいなぁと思っていた時期もありましたが、居なくなってからは何も撮れなくなります。
ご飯食べているシーンでも、歌っているシーンでも、後から振り返れば全部愛しいです。

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