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幸せ像による圧倒的暴力の回避

圧倒的な幸せ像に出会ったのは、小学生の頃だった。

祖母の家に飾られていた両親の結婚式での写真。すらりと綺麗なくびれがある白のウェディングドレスと真っ赤な口紅をつけた母。老け顔だった父は、今とあまり変わらない顔で真っ黒のタキシードを身に纏っていた。写真を見ていた私の隣にいた母は「お母さん綺麗でしょ?」と訊いてきた。女の子が好きな家族ごっこは大嫌いだった私は思わず「きれいだね」と答えると、母は満足げに微笑んだ。

「結衣」という私の名前は、母がつけてくれたものだ。母は最初「結」だけで、「ゆい」と呼ばせたかったらしいが、「辻野結」だと漢字全体のバランスがおかしいと親族に指摘されて「結衣」となった。

「ご縁に結ばれますように、いろんな人と出会えますように」そんな思いを持ってつけられた名前だと母から言われたけど、私は知っている。「好きな人(ここでは、母と父の関係性を示す)と結ばれますように」という意味も込められていることを。

時が経ち、私は20歳を超えた。母がウエディングドレスを纏った年にも、着々と近づいてきた。昔、私が好きだった人に、「好きな人と結ばれますように」と込められている名前だと打ち明けた。その時の私は「いい名前だね」と言ってもらえることを期待していた。でも、その人はちょっと顔を歪ませて「それは、なんだか酷だね」と言って、何もなかったかのように違う話に移っていった。私はその夜、ちょっとだけ1人で泣いた。

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「結婚」が人生のゴールだという認識は、間違っているは重々理解している。ゼクシィを手に取る人生だけが、幸せではないとも知っている。母と父が出会った当時よりも、今ではいろんな生き方が認められていていることも、頭ではわかっている。でも、ふとした瞬間に求めてしまう「2人で生きていく」という関係性を。

友人がSNSに恋人との写真をあげると、祝福したい感情となんだかよくわからない蟠りがあった。その蟠りが今まで言語化できなかった。特に自分に恋人がいない期間は蟠りが濃くなっていったが、「祝福しなきゃ」という気持ちに覆い隠されていった。

でも、先日「断片的なものの社会学」を読んで、その蟠りの正体がわかった気がする。

私たちが持っている、そうした(結婚や出産)幸せのイメージは、ときとして、いろいろなかたちで、それが得られない人びとへの暴力になる。たとえば、それを信じたせいで、そこから道を外れてしまったときには、もう対処できないほど手遅れになっていることがある。
そして、そこから外れたひと、あるいは「外れたと思い込まされたひと」は、自分が悪いのではないか、自分はもう幸せになれないのではないかと感じる。
幸せのイメージというものは、私たちを縛る鎖のようになるときがある。同性愛のひと、シングルのひと、子どもができないひとなど、家族や結婚に関してだけでもこれだけいろいろな生き方がある。それだけではなく、働き方や趣味のありかたなど、生きていくうえで私たちがしているありとあらゆることについて、なにか「良いもの」と「良くないもの」が決められ、区別される。
ある人が良いと思っていることが、また別のある人びとにとっては暴力として働いてしまうのはなぜかというと、それが語られるとき、徹底的な個人的な、「<私は>これが良いと思う」という語り方ではなく、「それは良いものだ。なぜなら、それは<一般的に>良いとされているからだ」という語り方になっているからだ。

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「2人で生きていく関係性」を得るために、女磨きをしようとも思わない。SNSに流れてくる幸せな2人に嫉妬の感情も抱かない。過去にお付き合いした人よりも、イケメンな人と付き合いたいなど思わない。

なのに、なぜだろう。幸せそうな写真を見ると、手をたたいて祝福しているのに、カウンターパンチをくらっているような気持ちになるのは。

圧倒的すぎるのだ。

コンセプト通りの写真に、唾のつけようのないエピソード。持たざる者は「素敵ですね」と言わざるを得ないではないか。そして、知らないうちに自己肯定感を削られていく。YouTubeの煽りがちな広告を見ても焦らないし、モテるために脱毛をしようとも思わないが、ふと後ろ髪を引っ張られる瞬間があるのは事実だ。

昔好きだった人が私の名前を「それは、なんだか酷だね」と言った理由が、今なら理解できる気がする。22年前の、結婚をする、子どもを産むが今より当たり前だった時代に誕生した私につけられた名前。大人になった今は、女性でも結婚以外の多様な人生を歩めると謳われている社会に生きるものの、40歳〜50歳で働いている独身女性を私は知らない。(ベンチャーで働いているという理由もあるが)

自信を持って生きるなんて、到底できない。

だけど、不安に支配されないよう毎日毎日精神解体をし、言語化していくしかない。自分の生き方に「言い訳」ではなく、「意味」をはりつけていかないといけない。地道で、苦しくって、つらい作業だけど、誰かの生き方をなぞるよりかはましのような気がしている。

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そうそう、ここまでグダグダといろんなことを語ってきたけど

それでも、私は自分の名前が好きで、愛してる。




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