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Д49 感情を感じきる方法

不快感に囚われてしまった時
嫌な感情に浸って全部感じきることで浄化することができる、といいますが私はこれがイマイチうまくできませんでした。

それが今日読書中にふとあることに気づいてクリアできたので、シェアしたいと思います。

ちなみに読んでたのはアジャシャンティの「大いなる恩寵に包まれて」
スピリチュアルガイドの本はたくさんあるけど、今のところ彼のシャープな視点と教えが一番分かりやすくて好きです



感情を感じきる方法ね

早い話が理解が少し違っていたのです(今現在わかってるところでは)
単純に感情として感じるんじゃなくて、完全に受け入れるのです

受け入れると言っても、不快だけどそれでも良しとするという事じゃなくて
あるがまま、そのまんまをただ観察するだけで良かったのです

何かにつけて脳内にカムバックする嫌な思い出とそれにまつわる不快な感情、年単位のサイクルの中で何度も似たような現実が起こって嫌な感情を持ってしまう時

いわゆるグル的な人たちは

その感情は自分そのものではない
ということを思い出してその場から離れる(意識・精神的、あるいは物理的に)

という方法と

逆にその感情に完全に浸ってとことん感じきる
という方法の両方を提示している場合が多いように思います

グルの言うことは全部試してみたくてしょうがない私は、今まで何度もその両方を色んな方向からチャレンジしてきたのですが

感情に浸りきる方を試して何か違う境地に辿り着いた試しがありませんでした

いわゆるプレイバックで涙が出てきたり、過去の自分を癒す気分になったり、怒りで体が当時のように震えたり、そして大抵はそのまま当時の感情の頂点にたどり着く前に、潮が引くみたいに怒りや悲しみのピークが下がってどうでも良くなって終わり

ていうかそもそも実際に過去それが起こった時に感じた以上のリアルな感覚って、ありえんの?

実際起こった時にちゃんと感じきれてないって、あれよりもっと深く感じることができるの?

過去の嫌な思いをスルメみたいに何度も噛み締めて味わい尽くすとか、なんか違くない??

と、疑問が浮かんでくる始末

ですが今朝方アジャの本をkindleで読みながら、瞑想についての言及にメモを入力していた時に自分なりのやり方が分かったのです

勿論これが正しいやり方だという保証などどこにもありませんので、単なる私の現状報告のようなものとしてシェアします

一部抜粋です
・・・・・・・・・・・・

瞑想とは、何かを発見していく状態です。
マインド(思考)を追い払おうとしないでください。ただ判断を下すことを手放してください。
少しの間あるがままに身を委ねてください。

・・・・・・・・・・・・

これを読んで
「瞑想することは、あるがままに身を委ねること」
というメモを書いているとき、いつもの朝起きた瞬間から私を覆い尽くしてくるモヤモヤしたアンニュイな不快感が浮かんできました。

あるがままに身を委ねるって、じゃあこの不快感を嫌なことって判断しないでただそこにいればいいんだ

と思いました

んで

いつもならここ止まりなのですが、今回ここでこの不快感を文章に書き留めようとしたのです

その時初めて、私はこの不快感のことをあまりよく知らないのだと気がついたのです

たった一文にするだけなのに、何年も私の中に燻っているこの不快感をうまく表現する言葉が見つかりません。

私は何度も何度もその感覚に戻り、できるだけ近づき、よくよく感じて、これだ!と言えるくらいピッタリくる表現を探しました

そのとき不思議なことに気づいたのです

私は生まれて初めてこの不快感を「単なる感覚」としてなんの判断もせず、純粋に観察していたのです

それはまるで研究者が実験内容や結果を観察して、自分の意見や予想、判断を交えずに可能な限り正確にありのままを記録しようとしているような状態でした

おお、なんという新感覚♪

もう一つの視点からこの時のことを説明してみます

お馴染みの不快感を脳内で再生しながら表現しようとしていた時、言葉や感情の前にある不快感の肌触りのようなもの、あるいは雰囲気のようなものを一生懸命感じていました

そして「気だるい」という言葉をチョイスして、ああでも少し違う、重いような、雨の日の湿度のような、どこまでも私にまとわりついているこの空気感・・・

あれ、これはひょっとして・・・

不快感を頭と体の両方で感じていた最中に、これとよく似た感覚を思い出しました

そう、それは昔頻繁に感じていた、ふわふわしたガーゼでできた薄い掛け布団の肌触りのような、私の中の幸せな感触

不快感はその幸せな赤ちゃんだった私が感じていた感触の反対側にある「陰」の部分だと気づいたのです

あの気持ちいい幸せ感を全く逆の観点から感じたものが、この気だるい不快感だったのです

その瞬間「フェアじゃない」という言葉が浮かびました

私は幸せ感を求めていながら、その幸せの陰の部分を見ようとしてなかったのです
幸せ感の裏側にある半分を追い払おうとしていたのですから、確かにフェアじゃないです

あるがままを受け入れるとは、判断や嫌悪感を交えずに嫌な気分を(同様にいい気分も)ありのまま観察することだったのです

そしてそれが、起こった感情をあるがままに受け入れる(浸りきる、感じきる)ことなのでしょう

目の前に起こっていることを脳内でスポーツ解説者のように実況中継し、判断し、思考と感情に身を委ねている限り、今この瞬間の自分を生きることはできないとアジャは言います。

実際にゲームに参加せずに解説をしている。判断を下すときは、自分自身の実在に対して第三者と化している。(ちなみに今回起こったことも実際には第三者的立場だと思うので、これについては後でΔに聞いてみます)

起こっている出来事をなんの判断も持たず、思考も交えずにただ観察するというゲームが始まりました。

さて、一体どのくらいまで上達できるでしょう

とりあえず、やってみます


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