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食わず嫌い嫌い

 やたらと「食わず嫌いだよ」と言ってくる人がいる。「食べたことがない/長いこと口にしていないだけで、食べてみるとおいしいはずだ(だから食べろ)」というものだ。この際(?)だからはっきり言っておくが、わたしは「食わず嫌い」などという現象は存在しないと思っている。

 食わず嫌いの存在を信じている輩は、そもそもが「食わず嫌い」という言葉を巧みに操ることで他人様の選好を矯正しようなどという野蛮なことを試みている連中であるから、わたしが「食わず嫌いが存在するなどと考えるのは止めるべきだ」と主張して彼らの誤った考えを正そうとすると、必ず「○○さんも××を食わず嫌いしていたけれど、食べてみたらおいしいと言っていた」と具体例を出すことでこれに反駁してくる。

 ひどい場合はこの○○さんがわたしの知らない第三者で、エピソードそのものの信憑性すら疑われることもあるが、ここではひとまずこの話の存在を受け容れておこう。彼らは鬼の首を取ったようにこれをひけらかし、食わず嫌いが存在する何よりの証左だと絶叫する。はっきり言って、これは全くもってサイエンスを感じない、荒唐無稽な議論であると言わざるを得ない。以下、この主張に対する反論を述べる。

 まず大前提として、人間の味覚は絶えず変化していくものである。三つ子の魂百までと言うが、幼少期の選好が死ぬまで持続するのであれば、ピーマンが(少なくとも食品として)市場に流通することはなかっただろう。ピーマンを食べたがらない少年に対し、大人は自分もかつて嫌いだったそれを「食わず嫌いだ」だと言い張って食べさせようとする。些細な出来事がきっかけで昔好んで食べていたものを嫌いになることも珍しくない。人が食わず嫌いだと認知しているものの正体は、単に昔は嫌いだったが今は好きになったという味覚の変化にすぎないのである。

 あまりに鋭い正論だが、これではまだ弱い。彼らの主張のキモは「オマエはおいしい○○を偏見に基づいて忌み嫌っている。人生の半分損しているから我々が啓蒙してやった」という点にあるのだ。仮に味覚が変化するものだとして、変化した自分に気付いていない人がいるなら、それを教えてあげるのはいいことだ、というのが食わず嫌い推進派の言い分である。

 だが考えてみてほしい。彼らのいう「食わず嫌い」の人々は、最終的に自分の意思でその食べ物を口に運んでいる。こういう人は、実際に口にしてこそいなかったものの、心のどこかで「もしかして別に嫌いじゃないのでは」という予知めいた希望を感じている可能性が高い。少なくとも「食わず嫌いだから食べてみなよ」が実際食べてみるかどうかに対して決定的な影響を及ぼしているとは言い難いのではないか。昔は嫌いだと言っていたがかねてから興味があった、今なら食べられる気がすると思っていたものを実際に食べてみてやはりおいしかった、という話であれば、彼らの言わんとしていることとはずいぶん意味合いが変わってくる。

 経済学や医学で用いられる分析手法の一つに「ランダム化比較実験」というものがある。これはある介入(この場合なら「人が嫌いだと言っているものを食べさせてあげる」こと)の効果を図るために、被験者に対して食べるか食べないかをランダムに割り当てた上で「食べたグループ」と「食べなかったグループ」の比較をする、というものである。このケースであれば「食べさせてあげる」という介入を「嫌いとは言っているけど今食べればいけるんじゃないか」と思っている人から「見ただけで悪寒がする、絶対に口に入れたくない」と思っている人まで、全員に対して平等な確率で割り当てなければならない

 したがって、食べればおいしいと感じる可能性が高い人だけが実際に食べてみている状況で「食べてみたらおいしかったから全ての嫌いは食わず嫌いである」という結論を導くのは極めて粗雑な手法であると言わざるを得ない。食わず嫌いの存在証明をしたいのであれば、食べてみてよと伝えて食べてくれるような人ばかりではなく、絶対食べないと決意して口も開けてくれないような人に無理やり食べさせて「ほんまや」と意見を翻すかどうかを確認する必要がある。無論私はそんな手荒な真似をするつもりはない。

 ちなみに、その他に食わず嫌い推進派が用いる狡猾な手段の一つとして、嫌いなものをこっそりみじん切りにして好きな食べ物に混ぜる、という犯罪スレスレの悪行がある。民事なら訴えればギリギリ勝てるだろう。当然、これも公に認められる検証方法ではありえない。経済実験を行う際、被験者はそれがどのような内容の実験であるかについての説明を受け、自身の意志をもって参加する必要がある。それが食わず嫌いの存在証明を行う実験であることまでは説明しなくて構わないが、食べ物を無理やりにでも食べさせる実験であることは伝えておく必要がある。被験者が実験に参加させられていること自体を認識しないまま行ったとなるとこれは重大な研究倫理違反だ。人間が絡む社会学系の実験室実験が難しいのはこういう点にある。

 もっと言えば「入っていないことを装ってこっそり混ぜたみじん切りなら食べた」ことから証明できるのは、「入っていないことを装ってこっそり混ぜたみじん切りならば消化できる」ことにすぎない。これは食わず嫌いの存在を巡る議論とは全く関係がない結論である。要は論点のすり替えだ。もしこれで「ほら、やっぱり食わず嫌いじゃん」などとのたまう人がいたら、その人には今度からスイカやウニを"ごと"サーブしてやろう。切れば食えるのだから、食べないというのは食わず嫌いだ。

 以上の理由から、私は「食わず嫌い」なる概念が「食わず嫌い」を信奉する連中の作り上げた神話であると主張する。皆さんの周りに食わず嫌いの言葉を盾に、人に無理やり何かを食べさせようとしている人がいたら、まずはこのnoteを読ませてみてほしい。もし読むのを拒むようなら、それは食わず嫌いだと言い聞かせればリンクをタップするぐらいのことはしてくれるだろう。ついでにこのページの下の方についているハートマークに触れてくれれば、こちらとしてはもう何も言うことがない。思う存分食わず嫌いの存在を主張させてあげればいいと思う。

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 全く関係ない話だが、この間女性を野球観戦に誘ったら「うーん、あんまり興味ない笑」という返信が来たので「食わず嫌いはよくないよ、行ってみると野球も結構楽しいよ」と送ったら「いや、興味がないと言ったのは野球のことじゃないよ」という。興味がない風を装って「じゃあ一体何に興味がないのか」と尋ねてみたらそこから2ヶ月返信がないが、なんにせよ彼女が野球を食わず嫌いしているんじゃなくて本当によかった。

※この作品はフィクションです。実際の人物、団体、事件とは一切関係ありません。

おまけ

 今回のタイトルはカーリングシトーンズさんのこちらの曲から頂きました。あとこういう文章が好きな方は、哲学者の土屋賢二さんが書いたエッセイを読むといいと思います。

#ballgame_economics #下書きの浅漬け #スキしてみて #エッセイ

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