放っておいてくれ

 今日で一番最低の気分だ。
 切り替えが速い人間だとよく言われるし、自分でもネガティブな気分は引きずるだけ無駄、引きずっても仕方がない、それなら楽しいことを考えたい人間だから、それでいいと思っている。

 しかし、そんな人間でも引きずってしまう、どうにも逃れられない最低な気分になることがある。
 今日は、自分がその「最低な気分」にどうしてなったのか、そしてそれはきっと、現代において色んな人間がぶち当たることになるだろう問題なのだと言うことを、感情のままに書き綴っていきたい。

きっかけ

 職場での事だ。
 お客さんで来られた高齢の男性にこんな質問を投げかけられた。

「男?……あれ、女の子か?」

 正直、この手の質問は何度か今までも受けたことがある。
 それだけに「またか」という思いと、

「いやどっちでもええやろ」

 の思いが同時に頭を占めた。
 しかしまあ、あくまでも接客業であるからして、こちらもお客さん相手に、
「いやどっちでも良くないですか?」
 とは言えないわけである。
 なのでこちらからの答えは、ただ笑って流すことだ。
笑って淡々とレジを打つ。
「よく間違えられるやろ?」
「ははは、そうですね、間違えられます」

放っとけーーーーーーー!!!!!!!!

 叫びたい気持ちでいっぱいだった。
 そもそも初対面の店員に「男」か「女」かと聞くことが失礼であることを理解してくれ。
 救いだったのは、他のスタッフが特にそれについて言及してこなかったことだろう。他人に対しての距離感を間違えることがない人たちばかりで、有難い職場環境だ。
 だが、残念なことに、これでは終わらなかったのである。残念なことに。

自分について

 続きを話す前に、少し自分について話そう。
 私は女として生まれた。
 けれど、一度も「女でよかった」と思ったことはないし、むしろ「男に生まれたかった」と何度も考えた。今もそう思っている。
 ここまでの文章で「私」のことを「自分」と書いてきたのは、そう言うことだ。

 自分を「女」だと言いたくない。

 これが、「性同一障害」なのかどうかは、自分でも不明である。診断も受けてない、受けにいってすらいない。
 ただ、何があったわけでもないが、成長するにつれ自分の性別が「女」であることがどうにも飲み込みづらくなった。

 肉付きの良い肉体や、膨らんだ胸元、男の腕よりは細い手首、高い声。

 日常的に気が狂いそうなほど嫌悪している、なんてことはないが、それでもふとした時、例えば風呂場の鏡を見た時、誰かに声をかける時、朝制服に着替える時、どうしようもなく「ああ、嫌だな」と思う。
 拭えない違和感は、常に日向で足元に伸びる影と同じだ。歩いている時には気にも止めないが、足元を見ればいつもそこにいる。
 自分が「女」であることに対する嫌な違和感は、自分にとってはそう言うものだ。

 だからと言って自分が自分であることが嫌なわけではない。むしろ、自分で良かったと感じることだってある。自分にしかできない何かは確かにあるのだから、それを全て否定しようとは思わない。
 それでも、「女」であること全てを受け入れられるかと問われれば、無理だとしか答えられないのだ。

 徐々に、その違和感に気づき始めてから、服はメンズ、もしくはユニセックスのものばかりを買うようになったし、スカートは履かなくなった。
 髪を短く刈り上げ、外に出かける時は毎日胸を潰している。
(ちなみに髪色も派手な色をしているのだが、接客業ではNGを食らっているため、業務中はカラーワックスで黒くしている。正直そこに対しても、髪色が明るければ「不良」だとか「やんちゃ」だとか、だから「厳しい目で見られる」なんて前提も納得はいかない。オシャレの一環だし、黒髪でも最低の接客をする店員はいるぞ、と言いたいものの、現代の社会ではその風潮が拭いきれないのだ。流石に自分も上司に『オシャレなんだから好きにさせろ」なんて牙を剥く勇気はない)

 とはいえ、「女が嫌だから男の格好をしている」のではないとだけは知ってほしい。
 確かに初めはスカートを履きたくない、と思ったからではあったが、今の服装は単に自分の好みでもある。
 髪を短く刈り上げているのも、メンズの服が多いのも、「女の格好が嫌」である前に「その格好が好きだから」しているに過ぎない。

 そんな格好をしているので、たまに「男の子?」と聞かれることがあるのだ。
 それでは今日の話に戻る。

追撃

 朝から晩まで仕事を終え帰宅した。
 自分は未だ実家暮らしで、職場もそこから通いやすい場所を選んだ。(とは言え、お金を貯めて一人暮らしをしたいな、と考えてはいる)

 疲れて帰ってきた中で、何気なく行っていた家族との会話の中でそれは起こる。
 本当にくだらない話題だ、お嬢様言葉がどうのこうの、そろそろ帰宅する姉を「お嬢様がもうすぐおかえりだ」なんて冗談を口にし、そんな流れで母親がふと言った。

「幹也は何て呼んだらいいのか迷うな、お嬢様って言ったら怒られそうやし、でもおぼっちゃんも違うもんな」

 なんでそう言う話題が一日に二回もあるんだ。

 正直なところ、いつもなら流していたとは思うが、その時は職場での例の質問にモヤモヤしていたのもあり、つい、

「そういう話やめてもらっていい?」

 と口にしてしまった。
 これだと何気ない会話でいきなり苛立った人間になってしまう。
 機嫌を損ねるかもしれない、と自分が職場で言われたことを話しながら、「わざわざ聞く意味が分からん」と愚痴混じりに、「だから今日はその手の話題を ふられたくない」と話た。

「そうやな、別に聞かなくていいよな」

 無事に同意を得られ、ならこの話はこれで終わりだと思ったその時である。

「変態じゃないもんな」

 耳を疑った。
 いや、そもそも何と言われたのか、上手く聞き取れなかった。
 だから、「え?」と聞き返したのだが、返ってきた言葉を聞いて、絶句する。

「男の声優追いかけてるし、変態ではないもんな」

 どう言う意味か理解できなかった。

「は?」
「いや女の声優さんとかじゃなくて、男の声優さん追いかけてるし。女の声優さん追いかけてたら変態やけど、男の声優さん好きって言ってるし違うやろ?」

 頭がその言葉を拒絶する。理解することを拒んでいる。
 そして後悔した。
 あれ以上、話を続けない方が良かったのだと。
 
 つまりこの人は、
「女が女を好き」だということを、「変態」だと形容した。
 同性で好きな人がいる、そのことを「変態」なんて言葉で表したのだ。

 それを理解できてはいても、なぜ、どうして、そんなものが頭を渦巻いて仕方ない。
「何でそうなんの、別に変態ではないやん」
 そう反論しながらも手が震える、心臓もバクバクと音を立てて、唇の端がヒクついた。

「いや……いや、あのさあ、それ、それもし私が、女の子好きなの言い辛いなってなってたら、どうすんの」

 どうしても投げかけずにはいられなかった。

「いや〜、複雑な気持ちになるわぁ」

 考えられへん、無理、続け様にそう否定をされたのを覚えてはいるが、あまりにも「変態」と言う言葉に衝撃を受け過ぎて、全てを覚えてはいない。

確執

 実のところ、以前にも同じような思いをしたことが二度あった。
 一度目は、服装についての話の流れで、

「(恋人として)女の子連れてきたりせんといてや」

 と言われたことがあった。
 自分では「男の恋人が欲しい」とか「女の恋人が欲しい」とか考えたこともなかったし、けれど、完全にないとは言い切れなかった。
 女の子の恋人ができたらおかしいのか。
 悩んでしまって、その夜、父親に聞いた。

「もしさぁ……女の子、恋人として連れて来たらどうする?」

 恐る恐るの質問に、

「そう聞くってことは、そうなるかもってことなんか?」

 父親はそう聞いてくる。
 いや、分からんけど……。
 そう答えると、父親は静かに一言だけ、

「そうか。……好きなようにしたらええ」

 特別な言葉ではなかった。
 だからこそ、その日は安心してぐっすり眠ることができたのだ。

 二度目は、自分が直接言われたことではない。
 人種差別についてのドキュメンタリーがテレビで流れていた時のことだ。

「この人(差別的表現)でレズとか役満やな」

 その日も最低な気分のままベッドに潜り込んだのをよく覚えている。

 そもそも、自分が「女」に違和感や嫌なものを覚えるようになったのは、母親の影響が強いのかもしれない。
 謂わば、「毒親」というやつだろう。
 一晩中説教で正座をさせられていたり、ご飯抜きにされたり、押し入れに閉じ込められたり、風呂場で熱湯(と言っても温度上限の60度)のシャワーをかけられたり無理矢理湯船に浸からされたり、馬乗りで殴られるとか外に放り出されて玄関の鍵を閉められたり、まあ上げ出したらキリがない。
 そんな幼少期でも結果的にご機嫌とりに慣れてしまって今でも実家にいるんだから、不思議なものだ。

 そんな母親の元で育った自分は、ずっと言われ続けていたことがある。

「お前は勉強できないから中卒で水商売で働いていくしかない」
「女でよかったな、結婚したら働かんでもいいし」
「せっかく女の子に産んであげたのに」

 他にも容姿について否定されたり、「産んだのは私だからどうしようが勝手」と首絞めやら何やらと人格さえ否定された。
 母親の言いなりに髪を長く伸ばし、母親が好きなブランドの服を着せられ、毎朝髪を結ってもらって学校へ行く。
 文字通り「人形」だった。
 自分がレースのついたスカートを初めに履かなくなったのは、きっとそう言った環境が影響しているのだろう。

 あまり恨みつらみを言っても仕方がないので、幼少期についてはこれ以上掘り下げはしないが、自分は、私はずっと自分を否定され続けて来たのだ。

自分の存在

 何度も、「私は女の子が好きなんだろうか」「女の子を好きになってしまったら」と悩んだこともあったが、そんなのその時にならないと分からないのだから考えても仕方がない。

 そもそも、私がいつ誰を好きになってもそれは誰にも、身内にだって関係のないことのはずだ。

 私は、私が好きになる人を好きになる。

 好きなアーティストについてだって、その人が「男だから」好きになって追いかけてるんじゃない。

「その人がその人だから」好きなのだ。

 他のものについてだって、誰だってそうだろう。

「女だからスカートを履きたい」んじゃなくて、
「スカートを履きたい」から履いてる。

「男だから髪を短くしてる」じゃなくて、
「髪を短くしたいから」している。

 本来はそうであるはずだ。
 けれど、中には「男だから髪を短くしなければならない」「女だからスカートを履かなければならない」という誰が決めたのだか知らない一般論や、心無い誰かの言葉でそんな固定観念に縛り付けられている人もいるかもしれない。

 少し前に、「見た目で損している」と言われたとツイートした時に、

「好きを誰かに好かれるために曲げるくらいなら死ぬ」

 と言ったが、これは大袈裟でも何でもない、紛れもない私の本心だ。

 自分の好きなものはいつだって、自分のためにある。
 そうでなければ、それは「自分の好きなもの」だとは言えないだろう。
 誰かの考えで自分の好きを曲げたくない。
 曲げさせないでほしい。

 最近買った、好きな漫画に、

「絶対の私」

 という言葉が出てくる。
 絶対、というのは、自分を信じて突き進むことだと。
 私が目指したいのはこれだ。
 何かを選択して後悔しても、それも含めて自分が選んだものなのだ。後悔しても、間違ってはいないんだと思いたい。誰かの言葉や環境に左右されて、自分が選びたいものを曲げるような真似はしなくないのだ。

 私は、私の好きが、好きだ。

 色んな人がそうやって生きられるようになれば良いのにと思うが、残念なことに、未だ色んな壁はそこら中に立っている。


最後に


 日本人は良くも悪くも他人に干渉しすぎる、自分と他人の境界が曖昧であるから、自己を他人に押し付けてしまうんじゃないだろうか。
 寄り添うことは良いことだ。けれど、寄り添うことが、いつの間にか締め付けになってはいけないと思う。
 いや、それも自分が今日本に住んでいて、周りには日本人ばかりの環境で暮らしているから「日本人はそうだ」と決めつけてしまっているだけで、世界中でそんな考えはそこかしこで芽を出しているのかもしれない。

 みんな、もう少し「自分」と「他人」の中で暮らして、区別がつくようになればいい。
 あくまで「自分」は「自分」でしかなくて、「他人」は「他人」なのだ。
 人によって考えは違う、感じ方も生き方も違う。みんなが同じになれるわけはない。
 あまりにも「他人」が近過ぎて、干渉をしすぎる、気にしすぎる、「自分」が納得できるまで「他人」を知ろうとするし、なのに理解ができないからその部分を「自分」の内から補おうとする。
 理解できていないのに、理解した気になって、その齟齬でまた誰かが傷ついているのを「自分」は知ることができない。
 理解しなければならない、なんてことはないのに、理解できなければ「他人」と共存できないと無意識で思い込んでいるのかもしれない。
 だからバイだのゲイだのレズだの、LGBT、ジェンダーがどうだ多様性がどうだと新しい言葉を生み出していく。
 男の人が男の人と付き合っても女の人と付き合っても、女の人が男の人と付き合っても女の人と付き合っても何の問題もありはしないしただ好きな人と付き合ってるだけのはずなのに、どうしてそれを表す言葉が必要になるんだろう。

 きっと、自分みたいな人間がもっと生きやすい世の中になるために必要なのは「理解」ではなく「許容」だ。「放任」と言ってもいい。
 誰かと全てを理解し合うなんて、この星の数ほど人間が住まう中では土台無理な話だ。
 だったら理解するのではなく、放っておけばいいのだ。
 理解せずとも、否定しなければそれでいい。否定しないことは、理解していることにはならないのだから。
 自分に理解が及ばないものを攻撃するのではなく、自分とは別のものも存在しているという認知。
 ただそれだけでいい、難しいことではないはずだ。
「自分」と「他人」が存在している。「自分」と「他人」は違うのだから、「自分」にはないものを持っていても当たり前で、同じ感覚を持っていても、違う価値観で生きていても、それは「他人」なのだ。

 こんなにつらつらと色んなことを書いてしまったが、結局何が言いたいのかはこの一言に尽きる。

 頼むから、放っておいてくれ。

 私は私であって、「女」でも「男」でも「あなた」でもない。
 私に「あなた」を押し付けようとしないでほしい。
 私は「自分」を生きたいだけなのです。
 例え「あなた」が理解できなくても、「あなた」と「私」は「他人同士」なんだから、それでいいのです。
 理解できなくても、共に生きることはできるのだから。

 どうか、同じように悩む人がいるのなら、「自分」を「自分」として生きることができますように。
 その人にとっての「自分の好き」を、自分のために選択することができますように。
 そんな世の中で私やみんながいきられるようになるのを、祈るばかり。


(本文中の心無い言葉で傷付いた方がいらっしゃったら、本当に申し訳ありません。あと途中恨み節のようになってしまったのですが、せっかくここまで書いたのでこのまま投稿します。憤りのままに一気に書いてしまったので、読み辛いことこの上ないとはおもいますが、自分の日記、考えの整理で書いたようなものなので、その辺はご容赦ください)