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あっちもこっちも不安だらけ

不安だ。

とりあえずは明日の面接が不安だ。
上手くいくか、失敗はしないか、受かれば新たな環境に身を投じ、落ちればまた面接まで漕ぎつけなければならない。

不安が連なっている。
まず上手くいくかどうかの不安、合否の不安、その先の不安。
受かるにしろ新たな環境でやっていけるか、仕事を覚えられるのか。不安が付きまとう。
しかし落ちれば次の企業を見つけなければならない、同じような条件の企業が見つかるのか、見つかってもまた落ちたら。
受かっても落ちても不安が付いて回るのだ。

とにかく早く楽になりたい。
面接を終えて合否を聞いてどちらにせよため息を吐きたい。
そもそも週五日八時間働きたくもない。
書きたいものを書いて好きなものを見てたまに働いてたまに上手くいかなくて酒を飲みながら愚痴を言って、また書いて時々いいことがある。
そんな生活をしたい。
もっと言えば太宰治になりたい。
しかしそんなことを言えばやれ「甘えている」だの「夢を見すぎ」だのと言われる始末。
いいや別に太宰治じゃなくてもいい、谷崎潤一郎、川端康成でもいい。
シェイクスピアでもゴッホでも蔦谷重三郎でも写楽でも紫式部でもドビュッシーでもオードリーヘップバーンでも手塚治虫でもいい、人生の中で一度でもデカい花火を上げて、その煌めきを他人の人生における街灯のひとつにしてしまえた、誰かになりたい。
名前がある人になりたい。
名前もないこんな碌でもない人生の崖下を覗きながら一人立ちすくんでいる私ではなく、
一冊の本にされたとして最後のページまで余白もないような、本の題名にはしっかりと名前が載るような。

誰かになりたい。
輝いている誰かになりたい。

けれどきっと、その誰かになったとして。
人生のいくつかの場面にある不安が一切合切無くなってしまうのかと問われれば、そうではないんだろう。
名前があって、輝かしい誰かになっても不安はそこにある。
そこかしこにある。
あっちを見ても、そっちを見ても。
不安はそこらへんに転がっている。

つまるところ、人間である限り〝不安〟からは逃れられないのだろう。
今も私の隣に立っているこの不安と、一生手を繋いで生きていかなくてはならないのだろう。
しかしそうしながら生きていくには、私の地盤は些か不安定すぎる。
こんなにも生き辛いのならばいっそ死んでしまえば楽になれるのにとすら考える日々。
やり直せない過去への、失敗したくないと望む未来への、どうにかできるのかすらわからない現状への。
不安。
大なり小なり、肌を突く不安を、どうすればひと時の間でも気にせずにいられるのか。
不安と言うのは思考の元に成り立っているのではないかと言うのは、あくまでも私の考えでしかないが。
だとするのなら、思考を止めるか、或いは、思考を逸らせないほど何かに没頭してしまえればいいのだ。
それなら少しは不安ばかりに奪われている私の視線も、別のものを見られるのかもしれない。

人間は、結局のところ不安にならずに生きてはいけないのだろうから。
低い給与、クレジットカードの支払い、多額の税金、良くならない体調、知られたくない秘密、蒸し返されたくない過去、決められない未来、ちゃんと歩いているのか不明瞭な人生、ふとした瞬間の孤独、いつまで追い続けられるのか分からない夢。
それら全てを包んだ不安を、薄めて、どうせ解消することなんてできやしないのだから、ちょっとばかり視線を逸らして。
けれどいつか、今よりは不安がそこにある恐れが減って、他のたくさんに目をやって、不安があるのは当たり前だけど、だからこそ気楽に不安になって。
いまより、多少は仕方ないなと生き辛くても笑えるように。
不安で仕方ないけれど。

とりあえずは、枝豆と一緒にビールで流し込むことにする。