なぜ、「生きているだけでいいんだよ」と言えるのか?~存在しているだけで幸福な理由 幸福になるための論理①

 さて、今回から、現時点で私が書籍と実践を通じて頭の中で構築した「どうすれば幸福になれるか」の論理をシリーズとして書いていこうと思います。


1 なぜ今、凡人が幸福を語るのか

 幸福論は世に溢れている中、しがない地方公務員がなぜこれを語ろうと考えたのか。

 幸福になるための思想はこの世の中には大量にあふれていますよね。数多くの幸福論から、宗教、哲学、自己啓発本・・・
 しかしながら、どれもしっくり来ないというか、一つ一つの議論は分かるような気がするのだけど、「唯一無二のこの自分」と関係していると思えない感覚は抱いたことがあるかと思います。

 私の考えでは、以下の2点がその原因だと感じています。
 ①根本的な言葉の定義部分をしっかり書いていない
 たとえば「人を愛せよ。そうすれば幸福になれる」とよく言いますが、こ多くの場合、この「愛」とは何なのか、分かりやすい定義をされることはありません。
 ②論理的な順番で議論が進んでいかない
 宗教や、観念的な幸福論の類いは、「目を引くこと」を優先するあまり、結論部分から語りすぎています。
「祈りなさい。その祈りは天を通じて世界を回り回って自分に返ってくるのです」といきなり言われても、何言ってんだおまえは!という反応しかできません。言葉の定義からはじまり、前後の因果関係がはっきりした状態で話しが進まないと混乱してしまいます。

というわけで、このシリーズでは、論理性(原因と結果の因果関係)のを重視して執筆を進めたいと思います。よろしければお付き合いください。

2 「幸福」の定義

今回の参考文献は、前回ご紹介した、「嫌われる勇気」「幸せになる勇気」です。

 さて、まずは言葉の定義です。

 「幸福」とは何でしょうか。

 アドラーによれば、こうです。

「 幸福とは、貢献感である。」

 わたしたちは、どこまでも社会的な存在です。
 いつも、本当は誰かのためになりたい、そのことによって「自分はここにいていいんだ」「わたしには生きる価値があるのだ」と実感したいと願っています。

 不登校、引きこもり、SNS上での誹謗中傷、職場でのパワハラ、家庭内のモラハラ、鬱病などの様々な精神障害…今日の「心」をめぐる社会問題は、全てこの「生きる価値」を実感できていないからでしょう。

 アドラーは、人は「私は他者に貢献できている」と思えることにより、自らの価値を実感することができると述べています。

 ここでポイントなのは、その他者への貢献感については、実際に貢献しているかという客観ではなく、「私は貢献できている」という私の主観であるということです。
 いかに他者に多くの貢献をしている人であっても、その人自身が自分は貢献できていないと感じていれば、幸福感は実感できないのです。

 影響力の非常に大きい大企業の社長で多くの人から慕われていたとしても、その人自身が自分は貢献できていないと感じていれば幸福ではないですし、寝たきりで全ての場面で介護が必要なご老人であっても、貢献できていると感じていれば幸福なのです。

3 存在しているだけで貢献している

 ここで考えてみてください。何一つ他者に貢献していない人間など存在するのでしょうか?

 いや、存在しません。全ての人間はただ存在しているだけで、生きているだけで、他者に貢献しています。

 資本主義社会でお金を媒体に互いがつながり合う現代社会においては、今日のお昼にコンビニでおにぎり一個買うだけでも、社会全体に貢献しています。その代金は、コンビニ、流通業者、加工業者、生産者、包装業者、に分配され、これを通じて各業者に務める従業員の賃金となり、その家族を支え、場合により子供に還元され、次世代の役にさえ立っています。

 この意味で、「消費者」になる人は、生きているだけで社会に貢献しているのです。そして、資本主義社会において消費者にならない選択肢などあり得ません。全ての人類が消費者です。

 たとえ一文無しので身よりのないホームレスで、公園を占拠している人であっても、日銭を稼いで最低限の食料を買っているのなら貢献しています。

 たとえお金を通じた循環を考慮しなかったとしても、全ての人類が貢献しています。

 産まれたばかりの赤ちゃんを考えてください。赤ちゃんは何一つ自分ではできませんが、価値のない存在だと考えられることはありませんね。
 産まれてきただけで、親や家族に貢献しています。「生きていく意思や強さ=生きる勇気」を親や家族に与えているのです。そしてこの点において、親は子に常に感謝しているのです。
そして、これは存在レベルの話であって、子供の出来不出来とは一切関係ないのです。

 ご老人もそうです。たとえ老人ホームに家族と離れて入所していたとしても、家族は存在レベルで生きる勇気をもらい、励まされているはずです。そしていつまでも元気でいてほしいと思っているはずです。
 また、同じ入所者に対しては、同じ場所で生きる仲間として、生きる勇気を与えているはずです。どんなに無愛想であったとしても。

 このように、客観的にとらえれば、社会的な面でも、存在レベルでも、他者に貢献していない人間など存在しないのです。

4 大切なのは気付き、実感すること

 上記のように、存在しているだけで貢献していると言われても、そんなの屁理屈であり、現に周囲に迷惑をかけているし、貢献感を実感できないとおっしゃる方もいるかもしれません。

 そこで大切なのが、「想像力」です。
 本当に私は誰にも貢献できてないのか?今隣にいる人に対してはどうだ?この人の今の笑顔は、私の存在によるものではないのか?親は本当に私が産まれてきて迷惑だったのだろうか?生きる勇気を得てるのではないか?今日買ったこのお菓子の製造に関わった人に対してはどうだ?…

 このような問いを、落ち着ける場所で自らに語りかけてみてください。

 ここでのポイントは、「私がどう他人に評価されているか」は関係ないということです。
 たとえ毎日親に罵詈雑言を浴びせられたとしても、上司や同僚に無視し続けられていたとしても、いじめられていたとしても、他人からどういう反応を受けているかは無視して、客観的に、論理的に考えることを意識してください。

 上記のように、私が他者貢献していることは絶対的なことであり、他者がなんと言おうとそれが揺らぐことは一切ないのですから。これは客観の事実の話です。
 大切なのは、私の主観が深くここに思い至り、実感することです。

 「想像力」を働かせること、そして想像力を働かせる余白を自分の中に用意しておくこと。
 忙しない日常の中でも、落ち着いて「自分は存在レベルで貢献しているのだ」と想像力を働かせる心の余白を持つこと。

 こうして、自分が自分の価値に気付き、他者貢献を実感すること。ひいては実は今すでに幸福であることに気づくこと。

 これが私たちの人生における活動の全ての心理的ベースであり、自分らしく生きるために不可欠なものです。

 そして、この幸福の感覚が、すべてのスタートになるのです。
 『さて、存在してるだけで満たされている私は、すでに幸福は手に入れている。よって失うものはない。そのうえで、これからどうしていこう?』というわけです。

5. 次回は他者貢献(=贈与)の起源の話

 さて、今回はベストセラーとなったアドラー心理学の思想から、幸福の定義と、我々は存在しているだけで他者貢献しているという話、そしてこれに気付くだけ幸福であるという話を書きました。

 机上の空論だとおっしゃる方がいるかもしれません。ただ、これは私が構築した論理の結論部分であり、これに至るまでの多様な思考が背景にはあります。

 それらを今後お伝えしていきたいと思います。

 次回は、他者貢献の動機の起源の話を書きたいと思います。

 なぜ、私たちは他者貢献感を得なければ幸福でないのか。なぜ、見返りもなく他人に施さなければならないのか。なぜ「頬を打たれたら、もう一方も差し出」さなければならないのか。我々はどの程度、他者のために働けばよいのか。そこに対価がないという不公平感をどう考えれば良いのか。努力が報われないと感じるのはなぜか。これらに応えるための思考をまた別著を参考に書いていきたいと思います。

 それではまた。

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