見出し画像

鹿の王 所感

リアリティとは、何をもって再現されるのか。


徹底的な時代考証か、写実的な情景描写か、迫真に迫った心理描写か。


鹿の王は、異世界を舞台としながらどこか自分たちが生活している現実世界を思わせる。


文庫本は2014年に刊行されており、今はもう2024年。10年前の作品となっているが、今だからこそ読者の心理に真に迫るものとなっている。


本書のキーワードとなる「黒狼病」。「アカファの呪い」とも呼ばれる病は、かつての王国民だったアカファ民は罹らず、移住民のみが発症すると噂される病だ。


黒い狼に噛まれることで発症するこの病は、症状が発症してから数日で死に至る恐ろしいものとして描写されている。


本書後半では、この病がダニからネズミへ伝染し、最終的に王都の至る所でも発症する危険性が示唆されていた。


直近で現実世界で連想するものがあるはず。

お気づきの方も多いと思うが、やはりコロナ禍を連想するだろう。


細かいディティールはコロナ禍とは異なるが、やはり、原因不明の病に立ち向かうストーリーという点では驚くほど一致している。


改めて、原因不明の病の伝染がどれだけ恐ろしいものか、感じられた。


話を本書に戻そう。

本書は二人の主人公で進む。


病の原因究明、新薬の研究に打ち込むホッサル。

黒狼病に罹るが一命を取り留め、死に損なったヴァン。


二人が進むストーリーは物語後半で交錯し、大きく展開されていく。


実は本書の前情報を一切入れずに読んだため、異世界ファンタジー物として認識していた。


そのせいでヴァンサイドのストーリーばかりが気になっていたが、ホッサルサイドのストーリーもどんどん面白くなり、医療ファンタジーという新しいジャンルに唸るばかりだった。

とはいえヴァンサイドのストーリーがたまらなく面白く感じられた。


死に場所を求めた男が奴隷として捕らえられ、その場所ですら生き延びてしまう。

最後の時、病から人々を守るための手段があると分かったとき、彼は守ることを決断する。

妻と息子を失ったときには何も出来なかったのに、失った後に手段が手元にある。この皮肉な構図が容赦なく心をえぐってくる。


ストーリーの中でヴァンによる目立った戦闘シーンはないのだが、飛鹿の扱い、咄嗟の判断力、狩りのための能力の高さから、いかにすぐれた狩人だったか分かる。


最近の異世界転生物にありがちな、強さをそのまま描写する傾向には辟易していたので、とても好ましい。


とにかく、長くなってしまったが、ヴァンサイドのストーリーがとてつもなく面白い。


ここからは、鹿の王での特に好みだったシーンを抜粋していく。


物語の1p

「我が槍は 光る枝角

  恐れを知らぬ 不羈の角

 背には 我が仔

  低く構えし この角は 弱き命  の盾なるぞ・・・」


ストーリーの始めに入る。物語前半はヴァンとユナの直喩に感じられるが、後半ではまた違った意味に感じられる。


第四章 黒狼病 61p

「人の力で及ばぬところへ来たときは、祭司医の方が、人を救えるのかもしれない。そんな思いがふと心によぎった。」


病気の原因を特定し治療をするオタワル帝国に対し、祭司医は積極的な治療をしない。

それが決して悪いわけではないことが示唆されるシーンでは、現代社会における終身医療問題を彷彿とさせる。


第11章 取り落とし 178p

「おれたちはみな(独角)になったときには、すでに息をする屍だった。一刻も早く死にたいのに、自ら死んだら常春の地へは行けぬ。だから、しんでいいぞ、と許される時を望んでいた。情けないといえば、実に情けない話だが。」


「俺たちは最初から、一瞬たりともツオル帝国に勝つなどという、あり得ぬ夢は見ていなかった。大切なのは負け方だった。中略」


ヴァンからは、過去のことはほぼ語られてこなかった。

独角について、かつてリーダーだった男から語られるのは、英雄的エピソードではなく、死地を求め、死地を与えた王国と兵士達の話だった。


第11章 取り落とし 248p

「たしかに病は神に似た顔をしている。中略

 だからといって、あきらめ、悄然と受け入れて良いものではなかろう。 なぜなら、その中で、もがくことこそが、多分、生きるということだからだ。」


一番恐れられていた黒狼病が最悪の形で伝播される危険の中、ヴァンは

犬使いとしての能力を使うか否か、逡巡する。それでも、あらがう手段が手元にあるならば、使うしかない。ヴァンにとっては、大切なユナやトマといった新しくできた身内と離れることになったとしても、生きるために「鹿の王」たる行動を決意した。

第12章 鹿の王 311p

「中略、息を大きく吸うや、ヴァンは、つかのま、天を仰いだ。

 いつもと変わらぬ空が、ただ遠く広がっている。

 (・・・いこう、暁)

 相棒に声をかけ、ヴァンは、一気に絶壁に身を躍らせた」


物語も佳境に入り、大一番の盛り上がりに入る場面。読者の心を盛り上げるのは大げさな場面や名台詞ではなく、登場人物の静かな決意なのではないだろうか。



以上、「鹿の王」読了後の所感だった。

最後まで読んでくれた方に、少しでも共感して頂けたら幸いだ。