夢原案小説「よくあるパンデミックその10」終章

※新型コ▢ナとは無関係です

※ゾンビものですので、グロ注意


 黒幕討伐作戦の日から、半年が過ぎた。

 いまや、人類の文明は驚くほどのスピードで回復している。一部の施設で電気が復旧。インターネットも使えるようになり、世界中で生き残っている人同士が連絡を取り合っている。

 私と融合したことで、社会ゾンビに囚われていた人たちは人間に戻ることができた。

 それだけではない。私の中のウイルスはさらなる変異を遂げたようで、今では街に残ったゾンビも、私の血を与えればゾンビ化が回復するようになったのだ。私の血、といっても、私と融合したことで、ほとんどの人間が私由来のウイルスを体に宿している。そのうちの誰もが、私と同じ能力を有している。討伐隊は全員超人ゾンビとなり、生き残った人間の救助作業は格段にスムーズになった。

 その日私は、非番の日で、部屋にいた。リュックの中から出てきた干し肉をかじりながら、探し物をしていた。私が勝手に住み着いていた廃ビルは、今でも生き残り集団の隠れ家になっている。人口が増えたため、マンションなどへの移住が提案されるほどだ。

「見つかりました?」

 声の方を振り返ると、巡査服の男が立っていた。

「いや、まったく。」

 私の声がやや不機嫌だったせいか、巡査服の男は苦笑した。

「そうだろうと思って、充電器を下から借りてきました。」

 私も思わず苦笑した。

「こりゃどうも。もう体調はいいのか?」

「リハビリはとっくに終わっていますよ。」

「そうだっけ……」

 巡査服の男は、変異した私のウイルスを接種し、昏睡状態から目覚めた。筋肉の衰えがひどかったため、ずっとリハビリをしていた……と思っていたが、それはもうだいぶ前のことらしい。救助作業に忙しくてすっかり忘れていた。

「せっかくの休みの日なんでしょう?それが終わったら、充電器を返すついでに、みんなと会ってみては?」

「それもそうだな。」

 私はもともと一人が好きだというのはこの際黙っておくことにしよう。私は充電器をビデオカメラに挿した。

 巡査服の男が去り、私はビデオカメラのデータを確かめていた。甥の部活の大会の画像はまだ残っていた。このビデオカメラはあの日からずっと持ち歩いている。コンビニやショッピングセンターでは瓦礫に埋もれたが、その都度掘り起こしていたのだ。しかし充電が切れてしまい、動画を見ることが今日までできなかった。

 ビデオカメラはちゃんと再生され、あの日撮った甥の試合の様子を見ることができた。

「懐かしい……」

 独り言が思わず漏れた。あの日からそろそろ一年になる。随分、いろんなことがあったものだ。過去の私には、自分がゾンビになることも、超人的な力を手に入れることも、その結果人類の救世主とたたえられ、大勢の人間と同じ屋根の下で過ごしていることなど、想像もつかなかっただろう。

 例のシーンになった。甥のチームメイトが暴れだし、甥にケガをおわせるシーンだ。

「あれ?」

 暴れている選手はどう見ても普通ではなかった。今だからこそ分かるが、これは人間というよりゾンビの暴れ方だ。もしかしたら、甥は彼から感染したのかもしれない。

「そういえば……」

 甥はそのあとすぐに救護室に運び込まれた。その中で感染が拡大したとしたら?私が覗いたときには救護室が血の海になっていた理由も説明がつく。救護室以外でゾンビが急増したのも、この選手が引き続き暴れていたからだと考えられる。

 でも、待てよ?

 白衣の男は、ガスマスク集団をけしかけてバイオテロを起こした。あの日私はスポーツアリーナの中を走り回ったが、ガスマスクのゾンビは一人も見かけなかった。じゃあ甥を怪我させたあの選手は、いったいどこから感染したんだ?

「謎だ……」

 私はビデオカメラを閉じた。

 よそう。終わったことだ。


 頭を切り替えるため、四階の食堂に顔を出すことにした。

「あ、おじさん!やっほー!」

 あの少女だ。隣にひっつめ女もいる。二人とも何故か厨房にいた。

 二人が抜けてきたので、聞いてみた。

「あれ、二人とも食事係だっけ?」

「ううん、偵察隊だよ。でもね、料理作ってみたくて最近移動したの。」

「私は彼女のサポート。」

 最も優秀な二人が異動し、偵察隊は混乱していることだろう。まあ、こんな判断ができるのも、ゾンビの脅威が小さくなったからだ。喜ぶべきことだろう。

「お姉ちゃんも働いてるんだよ。」

 少女が指差す先で、彼女の姉がテーブルを拭いていた。社会ゾンビから救出されたときに、少女の姉も人間としての理性を取り戻したのだ。ついでにうつの症状も改善したようで、白衣の男の一番の願いは叶ったのだと言える。

「ちょっとこっち手伝ってー!」

 未亡人の女の声がした。少女の姉は明るく返事をし、厨房に戻っていった。

「最近顔見てなかったけど、みんな元気そうで何よりだ。」

 私がそう言うと、少女はとびっきりの笑顔で返してくれた。

「ちょっとー、あなたたち二人にも言ったのよー?」

 再び未亡人の女の声がした。

「やば、行かなきゃ……あ、おじさん、後で私のオリジナル手料理持って行ってあげるね。」

「え、ありがとう。」

 二人は厨房へと去っていった。去り際にひっつめ女の「あれを人に食わせる気?」という小声が聞こえた。一体何を作ったんだ。

 昼食の時間まではまだある。私は他の人たちを見て回った。

「下に降りてくるなんて珍しいですね、ちょうどいいもの仕入れたんで見ていきます?」

 顎髭の男はあの日以降、討伐隊を抜け、武器を始めとする道具のメンテナンス係になっていた。

「ガスマスク集団の元アジトが見つかったのは知ってますよね?そこからたくさん回収してきたんです。」

 顎髭の男は例のガスマスクを渡してきた。

「これがいいもの?」

 彼は得意げに笑った。

「こいつは優れものですよ。マスク内部にセットした薬液を、霧状にして吸入できるんです。黒幕は、ワクチン、つまりあなた由来のウイルスをこれで接種させるつもりだったんじゃないかと。」

 確かに白衣の男は私の血を欲しがっていた。おそらく、社会ゾンビと融合し変異した私のウイルスを、培養しワクチン化、このマスクとともに生き残った人類に与える、という計画だろう。ワクチンといえば聞こえはいいが、実際には私のような超人化が起きる。人類のステージアップという白衣の男の目的が達成できるわけだ。

「注射器との最大の違いは、使いまわせることと、口や鼻からの接種になること。たぶん、素人でも扱いやすいようにってことなんでしょうね。うちにもまだ超人化してない人はいるし、この際、みんなで予防接種と行きますか。」

 顎髭男の話を聞きながら、私は、ある疑問を抱いていた。

 白衣の男は社会ゾンビとの融合や、このマスクによって、ウイルス適応者を増やそうとしたが……そもそもそんなことは必要だったのだろうか。理性的な人間だけの社会が彼の理想だった。しかし、ワクチンという発想は、もともと理性的でない人間にも救いの手を差し伸べるやり方だ。私のウイルスが変異したのだって、偶然のようなものだ。白衣の男は偶然にかけていたのだろうか。

 私はメンテナンス部屋を後にし、使われていないトイレに入った。ここなら四階でも一人になれる。

 手洗い台に寄りかかり考えた。

 結局、白衣の男自身も感染者で、なおかつウイルスによる発狂を完全には制御できていなかった、だから正常な思考力ではなかった……と片づけるのは短絡的だ。ウイルス拡散のための彼の行動はあまりにも周到だったのだから。

 とはいえ彼の計画は不確定要素が大きい。ゾンビ化ウイルスで人類を選別しようという発想がそもそもお粗末だ。感染者が発狂して無差別に人を食らったり殺したりする以上、理性的な人間であっても生き残れるとは限らない。やはり感染による発狂で正常な判断力を欠いていたのか?

 感染、発狂、そしてウイルスの拡散……

 ふと、さっき動画で見た、暴れている選手を思い出した。

 彼もまた感染し、発狂し、ウイルスを拡散した、ある意味元凶的な存在だ……

「待てよ、元凶……?」

 白衣の男は、ウイルスは突然変異で生まれたと言った。

 私は振り返り、くすんだ鏡を見つめた。

 ……そんな、そんなことがあるわけがない……

「だが、もしそうだとしたら?」

 私は鏡を睨みつけながら、自分でもびっくりするほどの確信をもってつぶやいた。

 ……ありえない!考えすぎだ!……

 自分の中で否定の声が起きている。だが、私にはそれを簡単に鎮めることができる。それが私なのだから。

 突然、激しく頭がしびれた。痺れは全身に広がり、体が動かなくなった。

「……いやあ、さすがに長居しすぎたね、こりゃあ。」

 鏡の中の私が喋った。違う、喋っているのは私の口だ。まるで他人の物のような感覚だ。

 ……なんだ、何を喋っているんだおれは?……

「ちっ、自我が消しきれてないなぁ。」

 ……自我?じゃあお前は自我じゃないのか……そうか、お前か!お前が黒幕か……

 私が高笑いをした。自分の高笑いは初めて聞いた。

「黒幕ねえ。ま、俺は見ていただけだが、そうとも言える。」

 ……ウイルスのルーツは一つじゃなかった。あの日、スポーツアリーナでも、突然変異によってウイルスが生まれていたんだ……

「その通り。お前はゾンビに引っかかれ、俺が体内に入り込んだ。」

 ……ウイルスに自我があったとはな……

「本来はないさ。だがウイルスというのは宿主の体の機能を利用するものでね。お前の体内で変異を繰り返すうちに脳を利用できるようになったわけだ。」

 ……一体いつから?……

「初日には自我の芽があった。お前がゾンビの力を制御しきれず情動に飲まれるとき、俺はお前と入れ替わることができた。」

 ……気づかなかった。体の主導権を奪われていたとは……

「完全に乗っ取ったのは今日が初めてだがな。自我があったと言っても、俺はお前の一部に過ぎなかった。それがこうやって分離できるようになったのは……」

 ……社会ゾンビと融合した時からか……

「正解。あの時社会ゾンビの持つ分離能を俺も得た。いやあ、兄弟ウイルスに感謝だね。あそこまで成長してくれるとは。」

 ……お前の目的は、やはり自己増殖だな?……

 鏡の中の私はにやりと笑うと、体を勝手に動かし、トイレを出た。

「生物の目的は全て、究極的には自己増殖だといえる。俺たちは宿主の脳を狂わせ、『結果的にウイルスを拡散させるよう』仕向ける。その辺のゾンビはそうだし、あの愚かな父親もそうだろう。」

 私の読み通り、白衣の男の破滅的な計画は、ウイルスの意志が影響していたのだ。

「しかし、今となっては俺が直々に何かをする必要はない。何の因果か、お前たち人間は勝手にウイルスを広めてくれているしな。」

 ……ワクチンか!……

「俺のコピーが全人類の体内に宿るなんて、ワクワクするね。人間はウイルスの植民地となるわけだ。」

 私はクックックと笑っている。

 ……くそ、俺の体を返せ!……

「ははは、堅いこと言うなよ。今まで、俺が暴走したおかげで、いくつもの窮地を切り抜けられたんじゃないか。体は対価にもらってくぜ。」

「ねえ、誰と喋ってるの?」

 ……あの子だ!……

 私が振り返ると、少女が食事の膳を持って立っている。

「ああ、飯を持ってきてくれるんだったね。ありがとう。美味しくできてるといいなあ。」

 私は私を装っていた。

「そうだけど……ねえ、大丈夫?おじさん、独り言なんて言うタイプじゃないでしょ?」

 少女は私の異変に気づいている。

「最近癖になっててね。疲れると出ちゃうんだ。気にしないでくれ。」

 私は愛想笑いをした。

「人間はウイルスの植民地となる、って何?」

 私の顔から愛想笑いが消えた。

「体は対価にもらってくって言ってたよね?それって、」

 私が鋭く触手を出し、少女の胸を貫いた。食器やお盆が床に落ち、中身がこぼれだした。

「殺すのはやりすぎかな?この娘だって俺が住んでるわけだし。」

 少女が動いた。

「死んでない!」

 少女が右腕を巨大化させながら私を殴った。

「ぶっ!」

 壁に思いっきりたたきつけられ、いろんな骨にひびが入る音がした。

 ……今だ!……

 私の意識が飛んだ隙をつき、私は肉体の主導権を取り返した。

「ありがとう、助かった!」

 私が急に礼を言い出したので、少女は戸惑った顔になっている。

「ねえ、何がどうなってるの?」

「ウイルスのせいだ、体を乗っ取られてた!」

「ええ?!」

 ……殺してやる……

「やばい、また意識が……」

「ちょっと、大丈夫なの?」

「大丈夫じゃない、助けて、ほしいことが…………メ、メンテナンス部屋から、マ、マスクを、ガスマスクを一つ……」

「ガスマスク、なんで?!」

 ……返せよ、『俺の』体……

「いいから!!!お、俺は、七階に……いるから!」

 私の右目が急に痺れ出した。

「早く!!!」

 少女は素早く身を翻した。おかげで、私の右目から勝手に発射された血の弾丸が当たらずに済んだ。

「体は渡さないぞ……」

 私は走り出した。

 ……七階には行かせない……

 全身が熱い。痺れもある。上手く走れない。もつれる足を引きずり、私は階段を上った。

 ……既に俺とお前の自我の力関係は逆転してるんだよ!……

「ならこれはどうだ!」

 意識が入れ替わる直前、私は思いっきり階段の壁に向かって頭を振りかぶった。

「うがっ!!」
 意識が入れ替わった瞬間、私は壁に頭をぶつけた。再び意識が朦朧とし、私は肉体を取り戻した。

「早く、七階に……」

 ……小賢しい真似を……

「ゾンビの力を使えば、あいつにのっとられる。」

 身体能力を高めるのも危険だ。私は地道に階段を上って行った。

 六階まで来た時、上の階から窓ガラスが割れるような音がした。おそらく、少女が建物の窓を伝って、先に七階に着いたのだろう。

 ……ここまでだ!…… 

 私の頭が再び痺れてきた。入れ替わる直前、もう一度壁に頭突きをしようとしたが、

「無駄だ!」

 入れ替わった瞬間に超人的な体幹で私は頭突きを寸止めしてしまった。

「ははは、馬鹿め、お前はもう淘汰されるしかないんだよ!」

「どうかしら?」

 階段の上に既に少女が来ていた。八本の触手を展開し、

「ぐおっ、」

 私は触手に横っ面をはたかれ、頭の痺れが止んだ。

「おじさんは殴れば元に戻るの?」

 私は少女の質問に、意識を取り戻しながら答えた。

「今のところは!医療スペースで、持ってきたマスクに鎮静剤を入れてくれ!それで俺の中のウイルスを抑えつける!」

「わかった!」

 彼女が戻ってくるまで数分はかかるだろう。それまで持ちこたえなくては。

 ……できると思うか?……

「できるさ。お前は所詮、俺の感情を一人歩きさせただけなんだから。」

 私は呼吸を整え、走るのではなく、歩いた。階段を一歩ずつ踏みしめる。

 ……心を落ち着ければ俺が鎮まるとでも?甘いんだよ!……

 体の痺れが次第に戻ってくる。

「痺れはないものと考えろ……医療スペースに行くことだけを考えろ。」

 ……万が一俺を抑え込んでも、俺はすでに多くの人間の中に複製されている!そいつらが目覚めるのを防げるか?……

「お前は俺を惑わそうとしている。その手には乗らない。」

 ……俺を封じるってことは、ゾンビの力も封じるってことだぜ?もしその辺のゾンビに襲われでもしたら、お前は情けなく食われるだろうよ!……

「恐怖をあおる作戦だ。無視しろ。」

 ……無視しても頭では分かってるはずだ。俺の言っていることが正しいってな。力を失ったお前には、もう何も守れなくなるんだぞ?ここにいる仲間たちがゾンビに襲われても、救うことはできないんだ!……

 頭の痺れが酷くなった気がした。

「黙れ。」

 ……おお!感情が動いたな!お仲間のこと大事にしてたもんなあ!俺なら守ってやれるぜ?諦めて体を明け渡せ!……

「動揺するな、感情を殺せ!集中しろ!!」

 ……もらった……

 私は痺れに飲まれた。意識が入れ替わっていくのがわかる。

 私は既に七階に到達していた。廊下の向こうに、こちらへ猛スピードで走ってくる人影が見える。

「ははは、あの娘、間に合わなかったみたいだな!」

 ……悔しい……

「さて、さっきは殺そうとしたが、やはり得策じゃないな。あの娘の中にいる『俺』を目覚めさせてみるか。」

 私は私のふりをしたまま、走ってくる少女に声をかけた。

「おーい、ありがとう、間に合ったよ!」

 ひっそりと私の右腕の触手が開いた。

 ……やめろ……
 
 少女が私のもとへ着いた。

「早かったね、じゃあ悪いけど、マスクを被せてくれないか?」

「わかった。」

 少女が両手でマスクを掲げ、無防備になった。私の触手が音を立てずに少女に忍び寄る。

 ……ダメだ!!!!……

 その時、私の心の叫びが通じたかのように、触手が奇妙な動きをした。少女に巻き付こうとしていた触手が、暴走し私に巻き付いたのだ。

「なにっ!」

 ……誰にも、手出しはさせない!!!……

「なんだこれは、体が熱い!!」

 私が叫び、少女が驚く。

「どうしたの?乗っ取られそうなの?」

 一瞬、私は偶然にも体の主導権を取り返した。そして彼女に向かって叫んだ。

「何としてもそのマスクを被せろ!これから俺は、暴走する!!」

 私の意識が入れ替わった。

「この!どうして出てこれた!?」

 ……暴走したからさ!!!……

 意識は奪われたが、唯一右腕の触手だけは私がコントロールしていた。五本の触手は私の手足に巻き付いた。

「くそ、抵抗はよせ!」

 私が暴れだし、少女を突き飛ばした。

「ちょっとおじさん……わかったよ。」

 私が右腕と格闘している間に、少女が襲い掛かってきた。

「近寄るな小娘!!」

 私が目にもとまらぬ速さで蹴りを繰り出したが、少女はそれをいなし、私の脚を捕まえた。少女も触手を展開する。彼女のは八本だ。

「離れろ!」

 私は少女が捕まえた左脚を、根元から肉の弾丸として発射、切り離した。彼女が脚と共に吹き飛ばされる。

 ……あれくらい彼女は平気だ、すぐに戻ってくる!……

「まだ右腕が、この……さてはお前、自我を暴走させたのか?!」

 ……そうだ!お前たちウイルスが人間の体内でやったことと同じことをしている!お前は俺だ、俺の感情を暴走させればこの肉体も暴走する!……

「やめろ!そんなことをすれば俺もお前も自我が崩壊してただのゾンビに成り下がる!」

 私は左脚の根本から触手を生やし、それで右腕の触手を引きはがしにかかった。もちろん中の私は抵抗し、触手と触手のぶつかり合いとなった。

 ……お前だけは、お前だけは許さないぞ!お前のせいでみんな死んだんだ!!!……

 私は甥や、兄や、三人兄弟たちのことを思い浮かべた。

 ……刺し違えてでもお前を止めてやる!!!……

 腕の触手も脚の触手も暴れまわり、壁や床を抉った。今や誰も近づけないほどに私は暴れ狂っていた。少女が右腕を巨大化させ殴りかかってきたのを、私の肉体は左腕を巨大化させ防いだ。

「来るな!誰も何もするな!俺に逆らうなああああ!!!」

 ……死ねええええ!!!!……

 頭の何かが吹っ切れたような感覚がした。ああ、これが染まるということなのか、私が軽蔑する狂気に、いま私は……

 巨大化した腕の陰から、少女が飛び出した。彼女は右腕がなかった。

 少女はすかさず左腕の触手を高速で展開し、私の触手を、ことごとく切り落とした。

 そして少女は、防ぐ手段を失った私の顔に、マスクを被せた。

 プシュッという音がして、私は意識を失った。

 気が付くと、私はベッドの上にいた。天井が見える。

 体を起こし、辺りを見回した。どうやら医療スペースに運び込まれていたようだ。隣のベッドに少女がいた。右腕はもう生えたらしく、すやすや寝ている。

 視界が妙に狭い。私は例のガスマスクを着けたままらしい。外そうか悩んだが、止めた。私の中のウイルスは、死んだわけじゃない。鎮静剤が切れれば、またあいつの自我が暴走するだろう。

「さて、これからどうするべきか。」

 不思議と私の頭はさえていた。そして懐かしい感覚がした。余計な感情を排し、思考のみに体をゆだねる、かつての私の習慣だ。

「ガスマスクと薬が、もっと必要だ。」

 私由来のウイルスを持っている人間全員は、ウイルスに自我を奪われる可能性がある。彼らにもマスクを着けさせなくては。

 私は少女の方を見た。

「すまない。」

 彼女に、そして私のせいでマスクをかぶる羽目になるであろう全ての人間にたいする申し訳なさが、心の底で湧き上がった。

 だが、その感情はすぐに薄らいだ。感情は処理する。増大すれば暴走する自我になりかねないからだ。そしてこの退屈な生き方を、他の人間にも強いることになる。

 私は立ち上がり、部屋の窓に近づき外を見降ろした。視力を高めてみたが、体に痺れは来ない。外に出て遊ぶ子供たちの姿が見えた。ゾンビはもういないと油断しきっているのが微笑ましい。

 しかしその愛おしさも、すぐに薄らいでいった。

「さあ、始めよう。」

 私は歩き出した。私の身に起きた出来事を皆に報告し、対策を練るのだ。全ては人類の、いや、私の愛した隣人たちのために。


『完』

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