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さよならおばあちゃん

EXITのりんたろー。さんの介護施設で働いていた経験の記事を読み、自分と祖母の関係性の希薄さについて深く考えてしまった。

家に帰るまで待ちきれず、予約した週刊新潮を書店内に併設されたドトールで開いた。
りんたろー。さんの介護施設での経験談はネット記事で何度も読んだことがあった。
しかし新潮の記事の最後、りんたろー。さんご自身のおばあさまとの会話の部分を読んで、不覚にも涙が出てしまった。
他愛もないおばあちゃんと孫の会話。
私はこんな風に祖母に一度も優しくしたことがなかった。
その後悔なのか、逆に優しくされた記憶がないことへの涙なのか、それとも純粋にりんたろー。さんの優しさを感じての涙なのか自分でもよくわからなかった。

一昨年の春、母方の祖母が105歳で他界した。
翌年志村けんさんが亡くなられた時は身内が亡くなったかのように泣けたのに、祖母のときに涙は出なかった。
昔から、この人が死んだときに私は泣くんだろうかと思い続けてきたけれど、それが現実になったとき、やっぱりな、と妙に納得した。
子供の頃は隣に住んでいたし、お互い引っ越したけれど、私が嫁いだ家から徒歩10分程のところに叔父夫婦と祖母が住んでいたのにお盆に仏壇を拝みに行くくらいの付き合いしかなかった。
物理的にずっと近くにいたのに気持ちは遠かった。私が祖母に優しくできなかったのは祖母と母との関係性によるものなのだけれど。

葬儀の後、精進落としの席で、孫たちに思い出を語れと叔母が言い出し、一人ひとり祖母との思い出を話さなければならなくなった。
祖母と過ごしたときの記憶はいくつもあったけれど、思い出と言われるとなかなか思い浮かばなかった。
いとこたちはそれぞれ祖母を送るに相応しいエピソードを話し、叔父や叔母たちは懐かしんだり涙ぐんだりしていたけれど、私は「おばあちゃんは泳ぐのが得意だった」とか「右利きなのに左手で眉を描いていてびっくりした」などと、小学生みたいな話しかできなかった。
本当の思い出は、私が幼稚園児の頃右腕を骨折したとき、祖母の家で夕飯を食べたことがあったのだが、利き手が使えないのにお箸を出されたことだった。
でもそんなことはその席で話せるはずもなかった。

祖母は私の母の一番下の妹とその子供たちにしかほとんど愛情を示さなかった。
私が可愛がってもらわなかったことは何も感じないけれど、母の胸中を思うと切なかった。
そのせいであまり祖母に親しみを感じられなかったのだ。
母はといえば、私の2人の子供たちには常に気を配ってくれて、ことあるごとに電話をくれたり会うたびに子供たちが喜びそうなおやつを用意して、学校はどうなのかとか、どんなことに興味を持っているのかなどたくさんの話をする。
もしかしたらそれはごく普通の祖母と孫の関係なのかもしれないけれど、私はほとんど経験したことがなかった。

葬祭会館での通夜振舞いの後、係りの方が来て「今夜お泊まりになられる方はいらっしゃいますか?いらっしゃらなければ地震のとき火災の原因にならないようにお線香とろうそくは消して施錠しますので」と言った。
10年前に父が亡くなったときは一晩中火を絶やさないようにしていたのに、震災のあとこんなところまで変わってしまったのだ。
だけど当然だれかが、とくに可愛がられて育った一番末の叔母とその娘たちは残るものだと思っていた。
それが意外にも全員あっさり帰ってしまった。
私も一旦帰宅したが、独り知らないところに安置されるのは不憫だから、せめて実体のある最後の夜くらいは祖母に付き添ってあげようと、子供たちと東京から来ていた妹と、なんとなく「うちら4人だけの秘密にしようね」と言って葬祭会館に戻り一夜を過ごした。
最後の最後にやっと祖母との良い思い出ができた気がした。

そうしてなごり雪のちらつく火葬の朝、私たち4人は何食わぬ顔で一足早く来たかのように装って親族が集まるのを待っていた。


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