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当たり前のように勉強するしかない



部活みたいなことがしたい
一つの目標に向かって
それを中心に生活が回って
悔しいも嬉しいも辛いも楽しいも経験できて、でも振り返ったら笑ってたことだけ覚えてて
ふと思い出すと
思わず泣き出してしまいそうなあの経験を
もう1度したい


これは割と高頻度で考えてしまうこと。
紛れもなく充実してたんだと気付く。


学校って、勉強にしろ部活にしろ何かに向かって否応なく集中させてくれる環境と時間が整った場所だと思っている。言ってしまえばそれらはやらなくてももちろん生きていける。むしろやりたいことがその歳ではっきりしているなら、それに向かえばいいとわたしは思う。ただ、勉強も部活も、とりあえず目標をもって頑張る練習には最適だと思う。
ああ、だから学校なんて場所が作られたのかもしれない。

元を辿れば自分の中に情報がどんどんインプットされていき、試験とか大会とか発表会だとか、勝手にアウトプットできる機会がある、だなんてとっても面白いことなのに、義務教育だなんてなんてナンセンスな言葉ができたんだろう。

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何年も生きていれば嫌でも気付くのは、なにかを継続するということの難しさだ。

例えば、「SNSを1日1投稿する!」これは相当難しい。はじめの誰も見てくれていない時期なんて特にだ。そもそもただ単に発信するだけでは何も生まれないので、どのような投稿をするかとか、その投稿をしたことでどうなるかとか、自分にできることと照らし合わせ、様々なことを考えて毎日時間を当てなければいけない。無意味かとも思われるものに時間を割くというのは結構勇気と忍耐力がいる。

例えば、「筋肉をつけて綺麗な身体になる!」
これも世の中情報過多で何を信じたらいいのかわからなくなってくる。それでも、いろんな情報から試しては失敗してを繰り返して、ようやく自分に合う方法を見つけることができる。(ただ、少なくとも誰が書いたかわからないような文章よりは実践した上で話してくれるトレーナーさんたちの言葉はもちろん説得力があるとは思う)

結局何をするにしてもの物凄い知的好奇心で、勉強し続けることが必要。


学生時代はこの気持ちでなんでもできたし、わたしはとにかくバスケ(もしかするとバスケというより部活そのものなのかもしれない)と数学が好きだったから文字通り一生懸命になれた。

それなのに今はどうだ、何もはじめてないのに先のことを考えすぎていると思う。

成果が出なかった時の保険に
「とりわけ何もしないこと」がある。


それは本当に美しくないと思う。

お金という存在がこの世から消え去って自由に生活をしていけるとしたら、

わたしは何をしたくて、どんな人間になりたいんだろう。
こんなにも情報やモノが溢れかえったこの世の中で、この質問された時に咄嗟に答えることができるというのは、自分の本望をしっかり理解してあげれていてすごく素敵なことだと思う。
わたしの今一番の課題は、この質問に対して胸をはって答えることのできる自分像を持ち、それに向かっていくことだ。




他人に勝手に期待して勝手に落ち込むの疲れるよな。


よし、やめよう


自分に期待して生涯ワクワクできればいい
だから自分に期待できるように勉強していく

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