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11話 涙の理由

もやもやしているけれど、この理由がわからない。母と電話でこれからのことについて話をしていると、だんだん、もやもやが大きくなって、いらいらしてきた。

自分の気持ちを大事にして選んだ移住場所。さまざまな条件を抜きに、ここに住んでいたいな、と初めて思えた場所だった。シンプルに、ああ、気持ち良いな、と。

次に考えることは、仕事なのだと思った。仕事は「やりたいこと」をただやるのか、それとも「お金のために」働くのか。今の段階で、やりたいことだけで生活はできない。だから、他の仕事を副業という形で行っていく必要があるのでは、と思っていたし、そうするつもりだった。
ただ、今、全く気が乗らなくなってしまった。全部が「お金のために」とは思っていないし、子どもと関わる仕事なら、それでいいのでは?と頭では思っているのに。

わたしは、いらいらを通り越して、泣いていた。泣きながら、その涙の理由がわかった。

「なんで、こうやって濁っていくんだろう。わたしはそれが嫌なんだ」

そう言いながら、ようやくわかった。すべての理由はそこにあったのだと。

小学校教員を退職したのも、次の発達支援の教室でのお仕事を辞めたのも。濁りたくない、濁したくない。突き詰めればその一点だったと思う。

こう書いてしまえば、なんと、わがままで頑固な人間なのだと、自分ながらあきれてしまうが、そう思ってしまうのだからしかたない。

なんで、おかしいとわかっていながら、子どもたちとそういう関わり方しかできないのか。

自分の気持ちは別のところに向いているのに、なんで、今ここにいるのか。

なんで、お金とか、生活とか、そういうことが大きくなって、自分の本当の思いを薄めていくんだろう。

まっすぐに自分の純粋な気持ちだけでできないのか。

今、その気持ちを守れないような気がして、苦しかったのだ。その理由に気づけただけでも、心は落ち着いた。


やりたいこと。
今思っていることは、三つある。

一つ目は、取材や対談をこれからももっとしていきたい。知られていないオルタナティブ教育の場がたくさんある。子どもたちの居場所、親子が集える空間も。これから、多種多様な価値観にあふれた世の中に移り変わっていく中で、多様な教育の場や、多様な生き方、暮らし方を選べる世の中になっていったらいいなと思う。そして、それが当たり前に認められる世の中に。

二つ目は、創作活動を続けたい。わたしは自分の世界を形作るのが好きだから。創作活動は自分にとって、精神安定剤的な役割になっているが、他に理由があるとしたら、自分が中高生のときにとても苦しい思いをしたから、家族からも友達からも、距離を置いていいし、そこから自分の世界を守る方法もあると知ってほしい。わたしの場合、それが詩だったり、音楽だったりした。音楽はつくることはできないけれど、文章なら書ける。それぞれの自分の道を照らす物語を。

三つ目は、ファミリーコミュニティーづくり。これは、本当に説明しづらい。自分でもイメージがあいまいすぎるから、何度ともなく、プレゼンを作り直し、言語化してきたけど、それでも、まだあいまい。なぜなら、既存のものではないからだろう。
名前をつけるなら、コミュニティカフェでもあるし、フリースクールでもあるし、公民館のようでもある。

コンセプトは、
「だれもが、ホームを持てる世界に。」

物理的にも戻ってこれる場所としてのホーム、自分のままでいいんだと思えるつながりや心地よさとしての心のホーム。だから、その場所の名前は「ただいま」がいいなと思った。

「親はこうでなきゃいけない」とか、「子どもにこうさせなきゃいけない」みたいな価値観から解放されて、「自分がどうしたいか」「自分と子どもにとって何が一番しっくりくるか」を見つめなおせる場所。

親から子への一方通行のつながりから、家族の枠を超えて、みんながみんなで育ち合う場所。めんどくさくていい、迷惑かけてもいい。でも本音で。

自然のある場所が前提だった。地域の魅力を発信することも理由の一つだけれど、それ以上に、自然の中で、今を夢中に生きている子どもたちは輝いていることを知っているから。子どものそんな姿を見て、大人の方が「今を生きる」ことを学び直すのだと思う。これも説明しづらい話だけれど。

濁りたくない、か。我ながら、自分らしさが爆発していると思った。これには降参だ。どこまでやれるか、確かめてみたい。

#エッセイ #日記 #生き方

サポートとそのお気持ちは、創作や家族の居場所づくりのために還元できたらと思ってます。