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無償の愛
わたしの人生における第一義のテーマは、おそらく、小学校5年生から変わらず、「無償の愛」なのだと思う。
小学校5年生のときには、今の思想や哲学が出来上がっていた。それは、はっきりとは断言できないにしろ、その時、好きだった音楽が20年近く経った今でも、私の中の最高順位を譲らず、そのままであるということ。そして、その音楽の根っこに流れている思想や哲学を大切にしたいと、理屈や打算を抜きにして、当時から思い続けていたということから、やはり、「無償の愛」というのは、自分の中で引っかかる大切なものなのだと言い切れる。
「愛の源泉」になるには?
まだその答えは見出せないが、手がかりのようなものは、ここ数年の間に明るみになってきた感触がある。
その手がかりを書き記すことで、これから先、さらに、自分の泉を深く、大きなものにしていけたらと綴り始めている。
ある方と真剣に話をしている時、意見が真っ向からぶつかった。多分、仕事をする目的みたいなものを話していたと思う。その方は、「感謝してもらいたいから」という、真っ当で尊敬に値するものだった。
誰でも認められたい、感謝されたい、そう思うのは当然だ。社会に貢献しているという自負を持つことができれば、自己肯定感は高まり、やりがいが生まれてくる。多くの人に感謝される人間に自分もなりたいし、自分が社会に貢献して、自己の価値を高めていきたいと切に思うが、「無償の愛」を考える時に、出発点はそこではないだろう、と思うのだ。
感謝してもらうために行動する。
誰かに幸せになってほしいから行動する。
そこを出発点にするのは、何か違和感を覚えるのだ。
誰かのため、何かのため。それは「偽善者」じゃないかと言われるような、そんな変な世の中だと、私自身は感じるのだが、上記にあるように、それ自体は結構なことだと思う。ただ、「無償の愛」と考えた時に、自分がそうしたいからしている、という単純な「自分の純粋な欲求」によって動かされている方が、真に近いような気がするのだ。
例えば、「ごみを拾う」という行動を一つ例にあげるとする。
「誰かのため」を出発点にする場合、拾ってあげることで感謝されたい、街をきれいにすることで社会に認められたい、と何かを見返りに行動に移すこととなる。
「自分の純粋な欲求」を出発点にする場合、きれいになったら自分が気持ち良い、拾っている自分でいたい、と思っているため何の見返りも期待しない。
「無償の愛」とは、前者か後者か問われると、わたしは後者だと思うのだ。一切の見返りを期待しない、なぜなら、「自分がそうありたいからしているだけ」の話だから。
これを一読した人から、自己満足の話か・・・とか、結局、自分の好きなことや、やりたいことを貫いたらいいんでしょ?とか、自分を大切にすることが一番よね、とかそんな風に置き換えて捉えられるかもしれないけれど、厳密に言うと、それも少し違うのだ。
高みを目指すわけでも、やりたいことを貫くでも、自分を大切に思うことでもない。
子どものような純粋無垢な欲求を、心の奥に感じること。そして、何によって満たされ、どこにいれば満たされるかを知ること。
満たされて、初めて、注ぐことができる。
注ぎ続けても、なお、枯れることを知らないのは、自分自身で満たす方法を知っているからである。
そして、究極の「無償の愛」は、「注ぐこと」そのものに、しあわせを見出すことができることなのだ。
サポートとそのお気持ちは、創作や家族の居場所づくりのために還元できたらと思ってます。