天国に関して思ったこと
イエスさまは、「天の住まいを整えてきてあげる」というようなことを言ったことがヨハネの福音書に書いてある。
遠藤周作(カトリック信徒だった)の「イエスの生涯」を読んで納得したあとでは、原始キリスト教のお偉いさんがくっつけた逸話か、実際言ったのか、判然としない気もするが、発想がすごいから、言ったんじゃないかと思う。(遠藤周作は海外の論文まで読んでいろいろ検証したらしい。ルカの福音書だったか、甦って弟子と会ったくだりは後付けで、墓があけられていて呆然とした、というところまでしかなかったのではないか、と書いていた。僕がなんとなく、キリストの甦りに素直になれない一因。)
『天国』。若くして急逝したり、キリスト教を信奉していて逝かれた方に、キリスト教以外の人も使う表現の印象がある。
去年、幼い頃の天国のイメージを持てなくなったとnoteに書いたが、聖書の学校で教えている方から、きょう、改めてヨハネの福音書の一節をコメントいただき、天国ってあったらいいなぁ、と思った。
『天』のイメージは晴れ渡った空から太陽を浴びるイメージである。そこに迎えられ、死後そこで過ごす。なんとも気持ちよさそうだ。
考えてみたら、死後、とイエスは言っていないかもしれない。群衆と丘にいるとき、だれかが「神の国」について尋ねたら、
イエス様は「いま、我々は神の国にいる」と言った。
いっぱんの、「死後行くいいところ」が「天国」ではないかもしれないと思う。天国も地獄も、死んでからではなくて、生きているうちに感じるものかもしれない。まあ、ここでは、死後の天国を否定まではせず、生きている間の、天国地獄もあるよね、と思っておきたい。
死後の世界は検証のしようがない。だから、原始キリスト教はイエス様を甦らせて、証言させる必要があったのではないか、とまで勘ぐってしまう。
イエス様は磔刑にかけられて死んで、黄泉に下られ、三日ののちによみがえった、という祈りの一節があった。
黄泉と天国、地獄に関してはしっかり統一した表現がなく、解釈が議論されている、というようなことを古い聖書の最後に見かけた気がする。黄泉って神道から借りた言葉だと思うし、「ハデス」の訳語が、バッチリじゃないかも、というような説明かな。
そこまで考えると、「わからないことを突き詰めて、自分を惑わすな」と、親しいおじさんが言ってくれているような気がする。
いつか言われたのだろうか。
あー大学で担任だった学生部長のイメージだ。プロテスタントだと言っていた。
まあな。天国に思いをはせたことを書いてみたかった。
こんなこと言ったら怒る人もいるかもしれないが、全部聖書の通りとも限らんし。
子供のようなこころを持った人こそ、神の国にふさわしい、なんて感じの一節もあったな。イメージだと書いてあることと違ってる可能性があるから、興味のある方は聖書をぱらぱら見てみてもいいかもしれない。
父がずいぶん弱ってきたが、天に逝くのだろうか。
そういえば、むかし、学校の神父が、
「死後、骨壺でじっとしていたいか?天を駆けまわりたいか?」と言っていたが、そこが、日本の信仰の自由なのかな、なんて思った。
ちなみにひねくれた子供だったぼくは、骨壺のほうが落ち着きそうなんて思ったのだが、
老いて、病苦を負ったら、若返って駆け回りたくもなりそうだ。生きてるうちにやると徘徊か。長生きもたいへんだ。
まあ、父はキリスト教徒をやめていないようだから、天国に行くイメージで見守りたい。
自分に関しては、保留かな。
天国ということばの響きだけを楽しんでおきたい。そう思ったのでありました。
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鏡を見たら、不安そうな、子供の頃によくみた口をへの字に曲げた自分がいた。子供の頃に、死んだら天国に行きたいでしょ、って発想があるのは、救いだった。地獄も怖かったが。悪い子だからとか言われたり・・・
大人になって、地獄にすら入れてもらえなかったら・・・と思い、怖くなった覚えがある。ハデス(冥府?ギリシャ神話からもらった表現だろうか)ってそういうイメージ。
やっぱり天国へ行きたいのかもしれない。
キリスト教でいっぽん通らなきゃ、結婚しないかもなと思った。
キリスト教以外で夫婦生活、子育てが考えられない。
まあ、こんなおっさんと結婚したい女性と付き合わないと、結婚生活のスタートにも立てないわけだが。
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ある聖職者のCDで、「キリストが、すべてのひとのために血潮を流された、その血潮の崇め方が甘いから日本の教会は弱い!!」と熱弁されていた。
80歳まで全国津々浦々、宣教したレジェンドである。(本田弘慈先生)
信じ方に真剣みが足りないということだろうか。
ぼくの好きなDVDで、ミラジョボビッチ主演のジャンヌダルクがある。
幼い頃イギリス兵に姉を目の前で殺された設定で、引き取られた親戚に神父様に会いたいと言い、洗礼を受けたい、というが年齢がまだと言われてしまったシーンがある。その後、彼女は史実通りかはわからないが、雷雨のなか家を抜け出し、教会の「キリストの血」の象徴である赤ワインを飲み干し、口元を真っ赤に染めて、稲光に光るステンドグラスを仰ぐ。
「いま、神様といっしょになりたいの!」
なんとも、劣勢のフランス軍のおしりを叩いてイギリスを追い返した聖女だけに迫力がある。リュックベンソン監督かな?シックスセンスからミラジョボビッチが好きで(笑)あ、このシーンはミラジョボビッチではありません。ミラジョボビッチに代わったとき、顔変わりすぎでしょwと笑うんだよな、毎回。
最後に、フランス王に用済みとされ、イギリスの監獄に閉じ込められたときのシーンが印象的である。
彼女がみたビジョン、啓示、それが神からのメッセージだと?思い上がるな、と悪魔のように攻め立てる幻覚。しかし、それは傲慢や暴力を告白する最後の告解へと変わる。
そして赦され、魔女として火あぶりにあう。
壮絶でのめり込んだ映画だ。
血潮と口を染める赤ワインのメタファーが甦った。
「悪いことしてないから、天国に行くんだ♪」という子供もいていいと思う。事故や病で死んだ人が天国に行っていればいいと、僕も思う。
死んだら暖かい光に包まれたい。
カトリックが自殺者の葬儀をしないという話を、コンスタンティンというふざけた映画でみたが、どうなのだろう。
ジーザスがすべての罪が赦されるために、十字架にかかられた。
その契約行為だけで、実際によみがえってなくてもいいと思う。(また怒られそうだけど(;^_^A)
感謝して、よりよく生きて、死ぬ。
それだけかな。
まあ、これからの人生もいろいろあるんだろうから、
感謝して、一歩一歩歩むしかないわけで。
・・・でした!
十字架の悲惨さを知りたかったら、パッションというたしか2000年代の話題作があると思います。歴史に忠実に作ったらしく、セリフも当時の言葉でしゃべっているそうです。近い、かもしれないけど。
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