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医学部5年次中退の統合失調症の自叙伝、系譜

じいさんは潰れかけの病院長の孫と駆け落ちして地方から埼玉に逃げ落ちて病院の雇われ理事長に。病院を地域中核病院まで大きくした昭和志士。
父は田舎で最初オジキに育てられた。
よくゲンコツされたらしい。
戦後5年ごろに生まれ、軍艦などのプラモデルが好きだったが、
火をつけて水たまりに浮かべ、沈むのを見ているような根暗だったと晩年述開している。
父は一族の子供の中で唯一の男子で、蝶よ花よと育てられたらしいが、地方まで性格のいい看護師、准看護師を見つけに行ったり、病棟を回ったりして病院が家みたいな明るい性格で好かれた。後に病院を継ごうと総務課長まで上り詰めたが、院長一家とのいがみ合いが始まっており、
上のポストは部長のみ。
その部長はちちが70になり閑職に追いやられ、おれが止めるときもその部長だった。親父を止めるコマ。
じいさんは駆け落ち先で拾ってもらった身だと私財を必要最低限にし、
自分一家は居候と父を役員に入れず、
父に職場と住む家を残して・・・じいさんは突然逝った。
やきもきしたのは母だった。

院長一家は昔の家に食い込み、母をいびり、
母は息子、俺を医者にして院長にすげ変えてやることを夢見た。
息子は俺。

幼稚園のころから塾に通った。
そうしないと、某歌舞伎一家も通った僕の母校や慶応幼稚舎、立教、成蹊には受からない。
これらの小学校の出身者とは、僕は高校の塾で合流する。
この頃は親が与える、明るい分岐点にしか見えない。

高校3年生ごろ俺は統合失調症の前駆期か、学力低下に見舞われ、
小1で大学は自由に選びたいと大学までエスカレーター式でない学校に入ったことを恨むことになる。
慶応幼稚舎もその頃は受かっていた。
世の中的には誤差に過ぎないが。

帝京の高校校舎での小学校受験だけ覚えてる。そこは、

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