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原則と作戦。 2020.01.01.Wed. 天皇杯決勝

実家では、僕が小学校5年生の頃から元日の天皇杯決勝が家族の恒例行事になっている。元日からの日程移動もあって近年は行ったり行かなったりという年も多かったのだけれど、今年は久しぶりにこの千駄ヶ谷の森の静かな空気を感じることができた。

普段も都心の割に静かなこの街がさらに澄んだ空気になる。行き帰りにそんな静かな東京を感じるのが昔から好きだった。やっぱり元日決勝は好きだ。と思いつつ、1月末にACLのプレーオフが始まり、2月の頭にはスーパーカップが始まるシーズンの前にここまでずれ込むのはカレンダー上よろしくないとは思う。

新国立競技場は、想定していたように「普通」の競技場だだった。1階席は傾斜が緩そうだったが、僕が座っていた3階席は傾斜もあってピッチを観るには問題がない。売店も増えたし、コンコースの回遊もしやすい設計にはなっている。フリーWi-Fiも快適だった。オリンピックスタジアムとしての問題はあまりないと思う。

屋根を支える骨組みなどに国産の木材を使ったデザインは、神宮の森になじむ姿だと感じたし、反響はほどよく、ブラスバンドの君が代やサポーターの歓声もストレスなく聴こえた。

ただ、もともとの国立競技場がそうだったように、ここを誰かが恒常的に使うイメージは全くわかない。サッカースタジアムとしてはピッチから遠すぎるし、そもそも大会期間中に無理矢理設置するサブトラック撤去後は陸上の大会も開けない。そりゃあFC東京も鹿島アントラーズも手を挙げないだろう。

ザハ案を金がかかるからと言って撤回されたあと、終わったあとどう使うのか(用語ではオリンピックレガシーと言う)がほとんど盛り込まれないなかで、結局建設費が上乗せされて大会に間に合わせるために完成したハコモノである。

SDGsを掲げる初の五輪を謳う大会のメインスタジアムの“持続可能性”が見えなくて、ハコモノ行政への批判と政策への展開が起きていたはずのこの日本のど真ん中に立っているというのはなんという皮肉だろうか。

……本論じゃない話が長くなった。

肝心の試合のほうは、あっけないくらいに鹿島アントラーズが2失点した印象。

ベーシックな伝統の4-4-2の鹿島に対して、「3バックで優位にビルドアップするにはこういう原則でポジションを取るよ」というお手本のような攻め方で押し込むヴィッセル神戸。

ハーフタイムにTwitter(フリーWi-Fiが快適なのでつながるのだ!)を眺めていたら、4-4-2であることが悪いわけではなく、4-4-2の弱点を突く崩し方に対しての原則がないという話が出ていて膝を打った。

4-4-2のブロックに対しては両ワイドが高い位置を取って相手のサイドの4人のマーキングをあいまいにさせる。ついてくるようならボランチやセンターバックがむき出しになるわけだ。それでも鹿島はそこで仕事をさせない強さのある選手がいたから守りきれるけれど、植田も昌子もいない。大分時代から相手センターバックとの駆け引きがうまい藤本がこの日のスタメンだったのは必然で、1点目のオウンゴールも含めて偶然ではない。狙って生まれた2つのゴールだ。

それでも鹿島のレオシルバは奮闘していたけれど、釣り出された選手のスペースでボールをキープするイニエスタにイライラしていた印象のほうが強い。

やり方はいくらでもあると思う。人基準のマーキングを捨ててボール基準の度合いを強めて、反対サイドを捨てて思い切りスライドをする(アトレチコ風味)とか、ブロック自体を下げつつハーフスペースはボランチが下りて5バックも辞さない(FC東京風味)とか。この日はそういう判断基準となる原則がなかった。

僕は鹿島の現状に詳しいわけではないけれど、大岩監督が退任するのはここに理由の1つが推察できるように感じた。おそらく、こういったときの対処には選手たちが対応を決めていたんじゃないかと。

海外だとどうかは知らないけれど、日本では往々にしてこうした原則のすり合わせはなされずにその場で対応するほうがいいとされている節がある。たとえば欧州で言われているサッカーをする上での原則というものが監督が変わるとごろっとなくなってしまうのはこのへんに原因があるようには思う。

もちろん、サッカー監督は戦術に詳しければいいわけではない。選手たちをプレーさせて勝つことが仕事なわけだから、戦術の講義なんて後回しでいい。

ただ、4-4-2に対しての攻め方の定石への対処という世界中で(Jリーグでもあるというのに!)すっかりポイントになっているポイントに対しての判断基準くらいは設定しないでどうするんだとは感じざるを得ない。ちなみにこれ、アジアカップ決勝で森保さんに感じたことでもある。

話を無理矢理森保さん側につなげていく。

先日放送されていたロングインタビューなんかを観ていると、どうも森保さんはこのあたりをわかっていてある程度放置している節はあるんじゃないかと勘繰るようにはなった。

もともと細部まで仕込むのは上手いコーチだし、できない仕事ではないはず。それをあえてしないということは、ロシアW杯のような「素の日本」でもそこへの対応ができるようににじませたいのではないかとは思う。しかし90分では到底間に合わない。

ここがはっきり見えるのは、やはり本大会まではわからないようには思う。

そしてまた天皇杯決勝、神戸の話に戻す。

神戸は、ビルドアップにしても崩しにしても、相手を優位にできる原則が守られていれば、あとはその原則の上で対応をしてくれといういい意味での自由を感じた。

その象徴がセンターバックの大崎だったように思う。

相手が2トップでのプレスをやめて1枚だけのプレスになれば、前に上がって中盤でプレーをするし、守備の局面では後ろの5枚が揃っていれば、前に出て中盤でボールを奪いに出る。そのときは後ろの4人は絞って距離感のいい4バックになる。

特に試合中に監督とコミュニケーションも取りながら指示をたくさん飛ばしていた酒井高徳を中心に、そういう守る原則と自由な判断の使い分けがうまくいっていたのがこの日の神戸だったと思う。

僕が観たいサッカーチームはどんなチームかと言われれば、それはどう考えてもこの日の神戸だった。

マリノスが優勝したJリーグ、紆余曲折ありながらも天皇杯を最後に獲ったヴィッセル、チームビルディングの考え方に対して、Jリーグ、特にJ1はここから数年で変わってくるように感じた2019シーズンラスト、2020年の幕開けだった。

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